レイシズムと弱い父

今年の読書の中で、とくに記憶に残っているのは、ジャン・ジュネの戦後の作品の翻訳を続けざまに読んだことだ。
『シャティーラの四時間』、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』、『恋する虜』、それに『公然たる敵』という諸作品である。


これらはいずれも、汲み尽せない豊かさと深さ、繊細さ、だが同時に激しさに満ちた書物だが、なかでも『恋する虜』は、僕にとっては10年以上前にベンヤミンの著作を読みふけったとき以来の、耽溺した読書体験になった。
ところで、この作品は多分20世紀後半における、もっとも重要な文学的・政治的な記録だと思うが、そのなかでも、他の箇所とは異なる質の衝撃を受けた一節がある。それは、手元にある94年出版の人文書院の本(鵜飼哲 海老坂武訳)でいうと328ページ、ベイルートを爆撃したイスラエル空軍の兵士の台詞として創作された、次のようなおぞましい言葉だ。

「武器ってやつは本当に恐ろしい。死人がでるもんな、アラブのよ。受精の瞬間に奴らが自分で生を拒否してくれりゃ、十や十五になってからおれたちが手を下す手間が省けるものを」

僕は、この箇所を読んだとき、言い様のない衝撃を感じ、そしてまったく直観的に、このあまりにあからさまな憎悪と侮蔑と、さらには否定の意志の表明のなかには、レイシズム(人種主義)にとっての何か本質的な情動が言い表わされているのではないかと思った。
だが、それがどういう情動なのか、よく分からなかった。
ここには、殺される側、自分たちが虐殺する側の生が、元々存在する価値のないもの、そもそも生誕(受精)を自ら拒むべきものであったのだという、情動のどこか過剰な表明がなされている。
否定の意志が向けられているのは、むしろ生そのものの或るあり方(現実性)であり、そのような生の現実を自分(兵士自身)が生きていることを否認したいというシニカルな情動が、他者への憎悪に纏いつくようにして表出されていると思われるのである。
この否認の情動は、何を意味しているのだろうかということが、ずっと頭のなかで引っかかっていた。




その後、この問いの答に関連すると思われる、二つの事柄との出会いがあった。
そのひとつは、奇しくも『恋する虜』の翻訳と同じ94年に出版された、中村雄二郎の有名な著作『悪の哲学ノート』をはじめて読んだことである。
この本の前半では、「悪」の概念に関係して「ケガレ」や「汚れ」というテーマが、人類学や日本中世史の知見、レヴィナスクリステヴァらの思想、シェークスピアの作品などを手掛りにして多角的に考察されている。
そのなかにはたとえば、日本の中世荘園世界では、ケガレを除去する方法として、犯人を領内から追放することと同時に、その住居を焼却するという方法が多く行われていたというようなことが書かれている。
ケガレの除去、浄化の手段として、火を用いること、焼却という方法は、(ヨーロッパなどとは別の文脈でだろうが)日本でも一般的だったのである。
ところで、この本を読んでいて、上記の『恋する虜』の一節を思い出した箇所があったのだが、それは著者の中村が、「ケガレ」を、レヴィナスの有名な〈イリヤ〉に結びつけて理解しようとした部分である。
つまり、『実存から実存者へ』や『時間と他者』などの、第二次大戦終結直後の著作においてレヴィナスは、われわれの実存を「出入口が塞がれ、逃れられない、無さえ不可能な状態」に置かれたものとして捉え、この状態を〈イリヤ〉と呼んだ。
中村は、〈イリヤ〉を、「否応なく強いられて実存すること」と簡潔に表現する。『ハムレット』の「生きるべきか、死ぬべきか」と訳されることが多い台詞は、実は自殺することさえも救いにならない(脱出の方法にならない)、生れて実存してしまったことのこの出口のなさを吐露したものだ、ということになる。
それは、いくら振り払おうとしても、「父の亡霊」のように回帰してくるのである。
そして中村は、そうした実存の否応なさ(〈イリヤ〉)を、同様に説明不可能な所与であり、なまの事実であるところの「悪」の概念に重なるものとして捉えた上で、この〈イリヤ〉が「ケガレ」(とその除去)という概念には深く関わっているのではないかと考察しているのである。

ケガレがケガレとして存在論的に成立する背景には、<否応なく強いられて実存すること>がなければならないはずである。(p94)

人は、<否応なく強いられて実存すること>の説明不能な「否応なさ」(所与性)に直面して、それに耐え切れなくなったとき、その認識の重さから逃れようとして、「ケガレ(汚れ)」を除去することに狂奔するのだろうか?
ここで中村が注目しているのは、この「ケガレ」「悪」を肯定することでのみ開かれてくる、生の可能性のようなものであろう。しかし、その肯定されるべきものとは何か。


ケガレと実存の「否応なさ」(所与性)とを関係づける中村の考察から、上記の『恋する虜』における否認の情動について考え直してみると、あの兵士が否認したいと考えた生の現実とは、ケガレた(汚れた)ものであって、彼はその否認によって、汚れていない想像的な生の領域を守ろうとしたのではないか、ということが思われてくる。
とすると、彼の憎悪や否定の感情は、想像的な生の安定を、汚すことによって脅かしたもの、またその可能性を感じさせるものに向けられているとも考えられるだろう。その者は、想像的な安定を脅かし、(受精によって)生を現実の「否応なさ」と「汚れ」のなかにもたらしたが故に、排除と攻撃の対象にされるのだ。
レイシズム的な情動が、「父」の生物学的なイメージに深く関わっているということが、ここから分かるように思えるのである。
実際、『恋する虜』では、この後、パレスチナの戦士ハムザとその母親との関係(この家族には、父は不在である)についてのジュネの双数的とも呼べるイメージをめぐる、もっとも核心的とも思える思考が展開されてもいるのだが、そうした箇所についての考察は、もちろん僕の力量をはるかに越えてしまう。




さて、『恋する虜』の、あのおぞましい一節についての問いを頭のなかに抱くなかで出会った、もうひとつの事柄だが、それはちょうど『悪の哲学ノート』を読んでいた時期のことなのだが、去る12月9日に京都の同志社大学で行われた『マイノリティが標的(ターゲット)とされる現在』という集会に行ったことである。
これは、先年の在特会による京都朝鮮学校襲撃事件をはじめとして、頻発している民族差別、野宿者襲撃、性的マイノリティの差別などの諸問題について考えていこうという趣旨のもので、たいへん内容のあるものだった。
そのなかで、印象的だったことの一つは、野宿者ネットワーク代表の生田武志氏の報告のなかの次のような話である。
2001年の夏に大阪市内の路上で野宿者が体に火をつけられて大火傷を負うという事件が相次いだ。レジュメによれば、その一つでは、火が衣服につけられた直後に、犯人のものと思われる「ヒャハハ」という高い笑い声が聞こえたという。またもう一つの事件は、いっそう明確な殺意が感じられるものだったという。このような身体への放火による襲撃の事例は、それまで海外からの報告のなかにはあったが、実際に日本でそのような事例を知ったのは、この時がはじめてだったと生田氏は述べていた。
人の身体に火をつけて焼き殺してしまおうという行為は、たしかに襲撃のなかでも特に異様な、過剰な暴力を感じさせる行為だ。たんなる攻撃や排除というよりも、野宿者の存在そのものを焼却によって抹消し、なかったことにしようとするかのような過剰な情動を、その行為のなかに見出せる気がする。
この過剰さは、『恋する虜』あのおぞましい台詞の印象に通じるものであると考えられよう。
僕は、この生田氏の報告を聞いていて、野宿者襲撃という事柄には、少年達による、父親以上の年齢の男性達への攻撃という側面があるのではないかと思った。
それは、「父」(受精させる者)であるゆえに想像的な共同性の安定を脅かす存在でもありうるのだが、とりわけそれは弱々しく、「汚れ」たものとして表象されることによって、レイシズム的な過剰な暴力(消去への意志)の対象にされているのである。
あえて飛躍した言い方をするなら、ここでは少年たちは、「強い父」に同一化するために、自分のなかの「弱い父」を攻撃しているとも考えられる。


また、この日の集会でもうひとつ考えさせられたのは、これらの未曾有の襲撃事件が起こった2001年という年が、やはり報告者の一人である金明秀氏が、2チャンネルなどのネット空間でのヘイトスピーチの氾濫を、市民社会の側が「見ないことにして」不可視化してしまった間に、今日の状況につながるような異様な醗酵を遂げてしまったと指摘した、2000年から2002年という時期と、ちょうど重なっていることである。
考えてみれば、ネット上のヘイトスピーチを「見ないことにする」という態度もまた、この世界(生)のなかの不快な「汚れ」を排除しようとする狭隘な精神の現われであるのかも知れない。
そして、この2001年の九月にはいわゆる「9・11」の出来事があり、2002年のやはり九月に「拉致問題」の沸騰を呼んだ(一度目の)小泉訪朝が行われている(さらに付け加えれば、国内においては小泉政治に代表される政治の言葉の空虚化が際立ち、それにうながされ煽られるかのように人々のヘイト的な心情が、マスメディアなどを通じてこの社会に広がり始めた時期であると言えると思う。)。
想像的な共同性とは、歴史的・文化的には「母国」日本の完結した像を意味するだろうから、その生誕(現実的存立)の時期に関わっていて、それゆえに排除したい対象とみなされる「父」の如き存在とは、ここでは他ならぬ朝鮮や中国のことになるであろう。
その攻撃衝動をさら強固にするためにこそ、それらはしばしば「汚れた」存在、蔑まれるべき対象として、思い描かれるのではないだろうか。




とりとめのないことを書いてきたが、そろそろまとめておかなければならない。
重要なのは、中村雄二郎がこの実存の「否応なさ」(<イリヤ>)を、重々しいものではなく、「汚れた」ものとして、つまり表層的でどこか浮薄で軽々しい、軽侮や蔑視の対象にもなるものとして捉えたことだろう。
それは、汚れていると同時にどこか弱々しく、それゆえに排除の対象とされて攻撃を受けることになる。
ハムレット』に登場する父の亡霊は、『悪の哲学ノート』においてだけでなく、デリダの『マルクスの亡霊たち』にも登場して重要な役回りを与えられているが、そこに現代の思想家たちが見出しているのは、困難な肯定の対象と想定されるべき「弱い父」の姿ではないかと思う。
安定を脅かし、さらには汚れを感染させる怖れもある、弱い父を、いかにして僕たちは肯定できるのだろう?
言うまでもなく、これはジェンダー的な問いでもある。僕(たち)はいかにして、自分のなかの「弱い父」を受け入れるか。
ここで確認しておくべきだと思うのは、レイシズムとは、汚れや悪を肯定するものではなく、むしろ、それを否認しようとするところに発生する情動、ないしは社会的な装置だろうということである。
われわれが回帰してくるものに含まれたわれわれ自身の「弱さ」を肯定できず、それを否認しようとするとき、その情動は他者への殲滅的な暴力を生み出すに至る。


だが同時に中村は『悪の哲学ノート』において、この<イリヤ>に重なるものとして「悪」の概念を捉えており、「悪には、他を魅惑すると同時に他に感染するという二重の特権がある」というシオランの言葉を引いている。
表層的な存在であるゆえの感染力は、蔑視の原因であると同時に、汚れや悪の特異な権能でもあるのである。
表層的で、感染する怖れのある「弱い父」の到来を拒まずに生きる力を獲得したとき、僕たちは権力の論理に回収されない仕方で、社会のなかに関係の網目を広げていくことが出来るのではないだろうか。
ジュネが行った、言葉による文学的・政治的な実践も、そうした試みとして捉えられるように思う。


恋する虜―パレスチナへの旅

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悪の哲学ノート (岩波人文書セレクション)

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