カッシーラー『人間』


この本を書いたカッシーラーという人は、ドイツのユダヤ系の哲学者だったが、ナチスが政権をとった時に海外に逃れたようで、最後は1945年にアメリカで没している。この本は、その八か月前に出版された。


カッシーラーは、人間社会や文化にとっての象徴(シンボル)というものの重要性を唱えた人として知られている。
この本の初めの部分でも、西洋思想史における「人間とは何か」という問いの変容と、その危機のあり様とが概観された後、人間とは、物質的な現実の世界を生きる以上に、象徴の世界に生きている存在であるということについて、次のように書かれている。

ここにおいても、人間は固い事実の世界に生活しているのではなく、彼の直接的な必要および願望によって生きているのではない。彼は、むしろ想像的な情動のうちに、希望と恐怖に、幻想と幻滅に、空想と夢に生きている。(p36)

人間を理性的動物と定義した偉大な思想家たちは、経験主義者ではなかったし、人間性に経験的説明を与えようと企てたこともなかった。この定義によって、彼らはむしろ基本的な道徳的命令を表現していたのである。(p37)

この、希望や恐怖や、幻想や幻滅のなかにこそ生きる人間のあり方を規定しているのが、つまりカッシーラーの言う「象徴形式」なのである。
人間は、動物のように物質的な事実の法則(欲求や本能)に基づいてだけ生きるものではなく、それ以上に想像や情動に突き動かされて生きる存在であるということ、その意味で理性的動物とは元来呼べないものであり、道徳的命令の効力が失われれば情動の渦の中に沈んでしまうであろうという、こうしたカッシーラーの考え方の背景には、(マルクス主義の物質決定論的な性格への批判と同時に)もちろんナチスの台頭という忌まわしい現実があっただろう。
だが、人間が象徴形式のなかにこそ生きる存在であるという事実は、カッシーラーにとって決して否定的に捉えられる事柄ではない。

要するに、動物は実際的想像および知性をもっているのに対し、人間のみが新しい形式のもの―シンボル的想像およびシンボル的知性―を発展させたということができる。(p45)

シンボリズムがないならば、人間の生活は、プラトンの有名な比喩における洞窟中の囚人の如くであろう。人間の生活は生物学的必要と実験的関心の枠のうちに限定されるであろう。そして、宗教、芸術、哲学、科学により、各方面から人間にひらかれている「理想界」への道路を見出し得ないであろう。(p55〜56)

象徴(シンボル)によって生きるということこそ、人間の人間たる由縁であり、それこそが人間の社会と文化とを未来に向かって開いていく希望なのだ。カッシーラーの基本的な立場は、そういうものである。


さて、本書はどこをとっても刺激と含蓄に富んでいるが、とりわけ面白く読んだのは、「神話と宗教」を論じた第七章だ。
いわゆる「宗教」の形成以前の時代、「神話」(呪術)によって語られる世界の性格について、カッシーラーは次のように述べる。

神話的世界は、いわば物と性質、実体と偶有を区別する我々の理論的世界よりも、はるかに流動し変動する段階のものである。(中略)すべての物は、好意か悪意をもつものであり、友情か敵意を抱くものであり、親しみか気味悪さを示すものであり、誘惑的、魅惑的また反撥的、威嚇的なものである。我々は、この人間経験のエレメンタリーな形態を、容易に心に浮かべることができる。なぜならば文明人の生活にさえ、それは決して、もとの力を失わず存続しているからである。激しい情動的興奮状態にあるならば、我々もまた、あらゆるものについて、劇的な概念をもつのである。それらの物は通常の姿を示さない。それらは突如、その相貌を変化する。(中略)我々の人間世界において、それらを否定することはできないし、それらを無視することもできない。それらは、それ自身の位置とそれ自身の意義を保っている。(中略)科学は、その任務を完遂するために、これら相貌的性質をすてて抽象を行ったけれども、完全にこれらを抑圧してしまうことはできない。(p109)

すべての事物が、友情か敵意かを抱いており、誘惑的であるか反撥的・威嚇的であるかという世界のあり方を、カッシーラーは、「相貌的」と名付けているのだが、この不安と動揺に満ちた世界のあり方は、ナチスを台頭させた社会の気分を想起させるものでもあるが、僕が思い浮かべたのは、プルーストの描く世界である。
失われた時を求めて』には、ケルトの神話のイメージが印象深く語られているし、またプルーストが当時流行した降霊術に強い関心を抱いていたことには、完訳を成し遂げた鈴木道彦も注意を促していた。
しかしそれ以上に、この「相貌的性質」を帯びた世界の像を描いているのは、「スワンの恋」をはじめとした、プルースト独得の濃密な恋愛心理の描写だろう。
不安や不信にとらわれ、対象への依存を求めて自己を進んで失っていくような心理の描写は、人間特有の呪術的な生のあり様に対する、プルーストの強い関心と、透徹した眼差しを示すものだと思う。反ユダヤ主義に重大な関心を抱いていたプルーストは、カッシーラーが指摘するような、象徴に支配される人間の根深い性質の露呈が、個人的な心理の領域を越えて、社会全体をやがてどこへ引きずっていくかを、鋭敏な嗅覚によって感じとっていたのではないだろうか。


カッシーラーは、象徴形式の普遍性という観点から、神話(呪術)の段階と、次に来る宗教の段階との連続性を主張しているが、その力点は、宗教の持つ道徳性が、呪術的段階の根底にある「生の連帯感情」の要素に根ざした肯定的なものだということであり、宗教を、呪術的段階が最も積極的なものとして内包していた「人間」の本質にとっての、自由や解放をもたらすものとして捉える、という見方である。

一神教の大宗教で見出されるのは全く異なった神の姿である。これらの宗教は道徳的な力に由来する。(中略)呪術および原始神話において見出される共感的連結は、否定されもせず破壊されもしない。しかし、今や自然への接近は、情動的な側面からではなく、合理的側面から行われることになる。(中略)神的なものは、もはや呪術によらず、正義の力によって求められ、近接される。(中略)これらの場合には、我々は、人類の英雄的努力、呪力の圧力と強迫を除こうとする努力、自由の新しい理想を感ずる。なぜならば、この場合、人間が神的なものと接触するようになるのは、ただ、自由により、自己に依存する決意によってだからである。(中略)この形式の普遍的な倫理的共感こそ、一神教において自然的または呪術的の生の連帯を克服するものなのである。(p139〜141)

つまり、宗教は神話(呪術)から、その基本的感情を受け継ぎながらも、自由や解放という、さらに優れた要素を人間の文化に付与するものである。そこでは情動の支配に代わって、自由と合理性が優越を占めることになる。
このようなカッシーラー一神教への高い評価には、疑問を持つ人があるかもしれないが、「宗教」がもたらすとされる自由や合理性、倫理性の重視は、ナチスの脅威を眼前にしていたカッシーラーの立場としては、当然なことだろうと思う。


こうした、自由や解放の段階に対立するものとしてカッシーラーが特にあげているのは、ソフィストに代表される、レトリックを重視する態度である。レトリック(修辞)は、人間の情動の部分に着眼し、それに働きかけて人を行動に誘うという、優れた特徴を持っているが、それは大事なものを取り逃がしているのだと、カッシーラーは言う。

修辞的文体は多くの美点をもちうる。それは動きをもち、また読者を喜ばすことができる。しかし、それは主要な点を見失っている。すなわち、それは、事物を直観させ、自由で公正な判断に導いてゆくことができない。(p273)

そこで、レトリックのこうした欠点との、著しい対比において語られるものの一つが、詩人に代表される芸術の言葉である。シェークスピアの作品などを例に挙げながら、カッシーラーは熱っぽく語る。

熱情を表現する詩人は、この熱情を我々に伝染させることはない。(中略)我々はこれらの情動のままになるものではなく、情動を見透かすのである。(中略)悲劇詩によって、精神はその情動に対する新たな態度を獲得する。(中略)悲劇的詩人は、彼の情動の奴隷ではなくて主人である。(中略)芸術において感ずるものは、単純または単一の情動的性質ではない。それは生命の動的過程そのものであり、「対極」間の絶えざる振動、喜悦と悲哀、希望と恐怖、高揚と抑鬱の間の不断の動揺である。我々の熱情に美的形式を与えることは、熱情を自由で積極的な状態に転化することである。(p210〜212)

すぐれた芸術の言葉、詩人の言語は、情動の激しい動きを正確に描き出すことによって、この情動の領域全体を対象化し、その主人となる。それは、情動から人間が自由になる、有力な方法の一つだろう。
ここで、先のプルーストの心理描写が思い出されるが、彼(プルースト)はまさに20世紀初頭の西欧社会に生きる人間(ブルジョワジー)の情動の、「不断の動揺」の実態を正確に、かつ内在的に描き出すことで、彼自身と読者とに、そうした情動の支配からの解放の道を示しているのだとも考えられる。
その道を実際に歩むことができるかどうかは、現在を生きるわれわれ自身の課題ということになるが。
また、もう一つカッシーラーが語っているのは、歴史家の役割ということだ。歴史家(史学者)は共感的でなければならないが、その共感は自分の属する立場に制約されることのない種類のものであるべきだという意味のことを、ランケを代表例にあげながら、カッシーラーは説いている。

ランケの共感、真の史学者の共感は、特殊の型のものである。それは友情とか、党派感情とかを含まない。それは味方をも敵をも包含する。(p270)

僕はこの箇所を読んだとき、武田泰淳の『史記の世界』を思い出した。



終りに、情動が支配的である呪術的(原始的)精神というものへの、カッシーラーの峻烈な批判の一節を引いておこう。ここで言われている「時代」というのは、もちろん彼が生きてこの本を書いていた「時代」のことでもあるはずだが、それはまた(不幸にして)、我々が生きるこの国に、いま到来している状況を述べたものとしても読みうるものだ。

原始精神にとって、時代の神聖以上に神聖なものはない。時代こそは、あらゆるものに、物理的な対象および人間的制度に、その価値、その権威、その道徳的および宗教的価値を与えるのである。この権威を維持するために、人間の秩序を同一の、変らない形態で、継続し、維持することが、絶対に欠くことのできぬこととなる。(中略)それゆえ、原始宗教は個人が自由に思考する余地を全く残していない。それは、その固定的、確定的で、侵すことのできぬ規則を、各人の行動のみならず、おのおのの人間的感情に対しても命ずるのである。(p324)