『父と子の思想』(読了)

承前。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090706/p1

父と子の思想―日本の近代を読み解く (ちくま新書)

父と子の思想―日本の近代を読み解く (ちくま新書)


この本では、「父」をキーワードとして、明治から現在に至る日本社会の構造的・精神的な変容が丁寧にたどられている。
著者は、「子」である自分(知識人)を見つめる「父」の視線、というものに注意を集中しているといえる。それは、実際の父の視線であると同時に、かつてはたとえば、「大衆」や「農村」(地方)の視線でもあった。一言でいえば、私を見つめる他者のまなざしである。
ポストモダン」が言われるような今日の日本では、それは消失したのか、というのが著者の(怒りを含んだ)反問だ。


この本の中で、とくに力強さを感じる箇所のひとつは、中上健次を論じた第三章である。
ここでは、まず中上の主要作品において、主人公であり、子である「秋幸」を見つめる、父「浜村龍造」のまなざしの効果が、サルトルの『存在と無』の一節を援用して解析される。この部分は、ぼくには非常に鮮烈だった。
そして著者は、作家中上の魅力の核心を、その「現実認識」に見出している。それは、「子」の視点、「知識人」の視点を越えるもの(それに力を与えるもの)、「理念」の外部(他者)の存在への強い意識を、この作家が持っていた、ということである。

この現実認識が、最後に息子の銃弾で死んでいく龍造の朋輩ヨシ兄の存在を支えている。ヨシ兄とは、いうまでもなく消滅していく路地の象徴である。龍造の葬儀にさえ顔を出さなかった秋幸がヨシ兄の臨終の枕もとで涙を流すことを考えてみればよい。この現実認識との間に齟齬があるかぎり、どのような魅力的な理念も理念のままにとどまる。(p132〜133)


そして、このような認識を有する作家であった中上は、国家と連続した近代日本の「家」という排除的な制度を相対化し、解体するような視点を有していた稀有な作家として語られるのである。


著者は、「父」と父、「家」と家との区分を語り、国家に接続する制度としての「家」に回収されない、情愛的な結びつきとしての家を救おうとしているようにも思える。
またさらに重要なことは、人間が生きていくうえでは、ある程度の権力性、いわば「父」であることの権力性を引き受けざるをえないのだという立場に立って、その意味からも「父であること」の重要性を、あらためて見つめようとしていることだ。
そこには、国家的な権力の存在を軽く見たうえで語られる「ポスト近代家族」的な物言いへの、不信と苛立ちが感じられる。
それは、本書の最後のあたりで、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』のような「ポストモダン」(同時にアナーキズム的な)言説への反論として語られる。

それはともかく、要するに大事なことは、社会や共同体が作動するとき、精神分析が捉えた「父」というシニフィアンにこめられた「抑圧」という問題は容易に消しがたいということである。それは私がそういうものを積極的に求めているということではない。そういうことがわれわれに与えられた動かしがたい与件だということにすぎない。言いかえれば、この与件を無視していくら解放の論議をやっても意味がないということである。(p248)




話が前後するが、著者が重視するのは、「父」の存在や視線というものに込められた、もっともポジティブな側面としての、「他者」のまなざしということ、言いかえれば先ほど書いた「現実感覚」というものなのである。
それが失われた言説や理念は、著者には、その意匠がどうあれ、悪しきナショナリズム(他者の忘却・排除)と映る。
そのことがもっとも明確に語られているのは、50年代における「農村」の問題を論じ、当時「「原点」としての村」という有名な理念を提示した谷川雁の思想を語った部分である。
筑豊での経験から、このような「村」のあり様を述べる谷川の文章を引いた後、著者は次のように書いている。

こうした光景の大半はもはや今日の日本からは消失してしまったかもしれない。しかし、これは日本の狭い国境を一歩越えれば、いまでも充分にアクチュアルな光景であることは言わずもがなとしても、この光景が思想にとって重要なことは、そのことの記憶とそうした視点のもち方それ自体にある。対象が消失しようとも、その視点そのものは容易に消えることはない。狭い国境内部での対象の喪失と同時にその記憶も視点も失い、国境の外を見なくなること、それがどんな美辞麗句で粉飾されようとも、私には裏返されたナショナリズムにしか見えない。(p196)


「狭い国境」を越えなくても、「この光景」は、「いまでも充分にアクチュアルな光景である」、ただし見えにくくされ、見えていても見えていないことにされているだけであろうと思うけれども、だが著者が言っていることには基本的に間違いはないであろう。
国境の外であろうと内であろうと、見えているはずの対象を「見なくなる」こと、それがナショナリズムの悪しき性格であり、だからこの勢力は、われわれが普通に考えているよりもはるかに多数、いや私自身もその揺るぎないメンバーになっているかも知れないのである。
著者は、そのこと(加担)への無自覚さに、苛立ち憤っているのだ。


「あとがき」のなかで著者は、いわゆる「ポストモダン」言説が80年代末のソ連・東欧圏の崩壊以後に隆盛したことに触れ、「ポストモダン」を言うのなら、「モダン」の中心で作動している資本主義システムの「ポスト」こそ問題にされるべきだ、と語る。
また、やはり「ポストモダン」を言うのならば、『「モダン」の中心をなす経済や政治の構造あるいはそれらと連動する諸々の思想との粘り強い対決』こそが必要ではないか、と苦言を呈している。
この二点については、(おこがましいが)まったくその通りだろうと思う。