『自由の壁』


この本の第一章では、明治以後近代化と共に日本に入ってきたものと思われがちな「自由」の概念が、江戸時代以前の日本において独自に成熟していたものだということが説明される。
それには中国からの影響が非常に大きかった。
近代化(西洋化)に先立つ、江戸時代の日本の思想・社会の独自な成熟に着目する論は少なくないが、ここでの特徴は、この中国、特に陽明学(王陽明李卓吾など)の影響を重視していることだ。
ぼくには、この部分が一番面白かった。


著者によると、王陽明らの思想は、朱子学の「性即理」(現実世界が「理」にそって運行していることを重視する)に対して「心即理」という立場に立ち、「情」を含めて人間に『自然に備わっているものを自由闊達に発現』するべきことを説いて、実践的な行動を重んじるものであった。
とりわけ、1930年代に入って中国で「陽明学左派」と名づけられて儒学批判の先駆者として再評価されるようになった李卓吾の思想は、現世の欲望の肯定から出発し、『水滸伝』のようなアウトロー的な大衆文学を称揚したり、遊郭の女性たちにも学問の場所を提供したりするなど、教条主義的な儒学支配の世の中に対して大胆な価値変換を図ろうとするものだったらしい。
こうした自主的な行為の主体としての人間のあり方を重視する陽明学の精神が、日本では本場の中国(や朝鮮)以上に、よく継承されたのだ、というのである。


たとえば、江戸時代の比較的初期に京都の町人文化に根ざした開放的な研究・討議の場を創出しながら、反朱子学的な学問の伝統の源を作った伊藤仁斎や、日本独自の儒学の道を考えて、武士を中心に後世に大きな影響を与えた山鹿素行なども、その影響下にある存在だとされる。
それ以上に、幕末の『水滸伝』の流行など、アウトロー的な価値観を称揚する陽明学の思想傾向は、民衆レベルにも広く受入れられ、影響を与えた。
さらに、儒学(朱子学)ばかりか仏教も制度化されてしまった江戸時代の日本では、現世を改革するための主体性の拠り所となる思想としては、陽明学がほとんど唯一のものとなるしかなかったことから、陽明学者でもあった大塩平八郎西郷隆盛など、陽明学の強い影響を受けた実践(行動)者が多く輩出することにもなった。
こうした独自の「自由」の気風は、明治維新から自由民権運動にまで及んでいく、というのである。


中江兆民植木枝盛など明治の思想家たちが、西洋の自由や人権の思想をよく受容できた背景にも、こうした「自由」についての独自な伝統、土壌というものがあった。
さらに重要なことに、やがて近代化に伴って生じたさまざまな弊害、つまり国家による制度的な強制や、功利主義的な経済・社会思想の蔓延による社会的紐帯の急速な破壊、あるいは環境の破壊(足尾鉱毒事件など)といったものに対する人々の「抵抗」も、この「自由」(自主的な行為の主体性)をめぐる独自な思想的伝統が、そのバックボーンを提供したのだ、と著者は見るわけだ。


そこから、第2章では、近代以後現代に至る日本の歴史の流れをどう見るかということに論が移る。
ここでは、とりわけ「満州国」が掲げた多文化主義的な理想(「民族協和」)や、いわゆる「大正生命主義」の流れから出てきた天皇を普遍主義的に位置づける思想などが、上記の「自由」の独自な伝統(による近代化批判)という視点から、肯定できるものを含むものとして見直され、西洋の帝国主義による「近代化」に抵抗し、克服を目指すものとしての「大東亜共栄圏」の思想の価値が再評価されて、米英との戦争をその線においてとらえる、いわば竹内好「近代の超克」を思わせる論が展開される。
ここでの著者のスタンスは、「東京裁判史観」や左翼的な「一国発展史観」といった「近代主義的」な見方による歴史の裁断を批判し、そうした歴史の見方の「壁」からの「自由」を獲得しよう、というもののようである。
著者は、歴史に対する特定の見方(史観)にコミットするのでなく、それらを「相対化」して見るという自分の方法を、江戸時代後期の日本の知識人(三浦梅園、石田梅岩など)がよく体現していた「自由」な思考の今日的な再現、継承として考えているらしい。
それが、上記のような近代主義的な歴史の見方(著者の言う、思考の自由を阻む「壁」の代表例にあたる)による歴史の裁断、一面化に対する批判と表裏をなしている。

こういうモノサシやククリカタが、中身を見えなくする壁をつくるのですね。それを避けるには、ひとつのモノサシやククリカタにとらわれず、いろいろなモノサシを手に入れ、自由に使いこなす力をつけることが大事でしょう。(p146)



だが、このような著者の歴史に対する見方は、自分自身の思考に対して本当に自由を獲得している、すぐれてその方向に向おうとしているものだといえるだろうか。
著者が主張する、さまざまな歴史への見方、コミットを相対化することで思考の自由を獲得しようとする姿勢そのものが、特定の歴史的条件に深く根ざしたものであり、そのことへの無自覚が、著者の歴史や文化に対する見方を、国家主義に近い方へと歪める結果をもたらしていないだろうか?
象徴的だと思うのは、第2章の終わり、日本の近代文化をどのような枠組みにおいてとらえるべきかを論じている箇所である。

(前略)それまで地方や身分によって分かちもたれてきた文化をひとつにまとめて、自国文化の伝統と考える考え方自体が西洋近代起源なのです。つまり、分裂も混血も、西洋近代が作った国民文化の観念なのです。実際は、明治のはじめ、福沢諭吉もそうしていたように、伝統文化で西欧近代を受けとめ、伝統を組みかえて、西欧ともアメリカとも違う独自の国民文化をかたちづくってきたのですから。(p192〜3)


著者の論旨は、「思考の自由」ということを言いながら、最終的には国民文化の独自性の強調に帰結する。
第一章では、中国の思想の影響下に、あるいは中国の思想との交流のなかで江戸時代の「自由」の思潮が育まれたという視点が導入されているのに、その思潮(思想の流れ)は「中国や朝鮮におけるよりもむしろ日本で広く受入れられた」という説明の元に、まるで「自由」の思想は日本独自の精神的な「伝統」のように語られていく。
言い換えれば、日本の思想家や文化、社会が体現した「自由」のあり方(「相対化」の自由)だけが、人間精神にとって唯一の自由のあり方のように語られているのである。


実際、著者の論理からは、西郷や大塩平八郎岡倉天心や江戸時代の儒者が(ある程度の批判をこめながらも)、陽明学の流れを真に引き継いだ「自由」の体現者として語られることはあっても、例えば孫文毛沢東安重根のような近代のアジア人が、同様の存在として語られることはないように思える。
大東亜共栄圏」思想は「自由」の思想の薫陶を受けた不幸な思想的事例のように語られても、韓国・中国のナショナリズム毛沢東思想や主体思想といったものが、そのように好意的な再評価に浴するということが、果たしてあるであろうか?
大東亜共栄圏」など近代日本の国民にとって身近な「反帝国主義」思想は、どれほどの惨劇をもたらしたものであっても、その真価を(相対化の名の下に)再評価されるが、抗日・反日という形で示されるまごうことなき「反帝国主義」の思想の方は、悪しき近代主義の産物のように見なされて、著者の言う「自由」の圏域からは排除されてしまうようである。
ここに、著者自身の帰属する特定の国家や国民に深くコミットする思考のあり方を、見出さないわけにはいかないだろう。


著者の言っている「自由」、とりわけ思考の「自由」の概念は、まったくローカルな限界を持っているものである。
日本でだけ、なぜこのような「自由」の開花が可能になったのか。本質主義の立場に立つのでなければ、地理的・歴史的などのフィジカルな条件の特殊性が、それをもたらしたと考えるしかないだろう。
これは、その置かれた条件の異なる土地では、「自由」の体現のされ方、追求のされ方も異なったものになるということであり、その差異を見つめて、自分の思考が自明のもののように見なして携えている「自由」の「不自由さ」を自覚することしか、ナショナルな(多くは制度的な)束縛を脱する術はないはずなのだ。
著者の「自由」に対する見方には、その己の持つ思考の「不自由さ」への自覚が、あまりに希薄だと思えるのである。
つまりそれは、自分を真に束縛しているもの(現実)を、捉えられていない。


それはまた、多文化主義的であったり、「民族協和」的であったり、反帝国主義的であったりすると自分では思っているその思想の「自由(リベラル)さ」を、拒絶してくるような相手、すなわち自分との間に政治的・権力的な対立と葛藤をはらんでいるような他者の存在を、排除することによってしか成立しないような思考(自由)のあり方、とも言えるのではないだろうか。
本書の中に、「民族協和」的な理想を唱えて満州国の建国に関与した石原莞爾の戦略が、国共合作を予見できなかったために挫折していかざるを得なかったことが書かれているが、石原が国共合作を予見できなかったのは偶然ではあるまい。
そして、著者のような思考の立場に立つ人も、やはりそうした、自分が支配・抑圧する他者の行動を、決して予見できないであろうと思う。
そのような思考が、国家や国民の論理の外に出ることは、やはり出来ないはずだ。


だが、常に他者に開かれているような、自分が抑圧したり排除や対立さえしようとする相手にも開かれているような思考の「自由」を、われわれはどうやったら持てるだろう。
その自由は、われわれにとっては、まるで「不自由」のような姿で到来するものかもしれない。