『プルーストを読む』を読む

プルーストを読む ―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

プルーストを読む ―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

この本を読んでいて、一番戸惑いを感じたのは、たとえば次のような箇所だ。
これは、この小説の「語り手」による、社交界の生活の辛らつな描写に関する指摘である。

語り手はこういうときに、いちいち上流社交人の教養の無さを指摘するわけではない。むしろ彼らの言動を淡々と伝えるだけだ。そしてこれは作者プルーストの立場でもあるけれども、憧れを持って入りこんで行った環境のなかにあらわれる人々の滑稽な側面を、彼は異常なくらいの熱意をこめて描く。つまり外部から「フォーブール・サン=ジェルマン」を裁断するのではなくて、一種の共犯的な批判者として、華やかな世界の持つ醜さを、愛情をこめて紹介するのである。(p98)


私は、社交界の人々についてのプルーストの鋭利で辛らつな描写に、「愛情」がこめられているようには感じず、非常にシニカルな心理しか見出せないという印象を持っていたので、この鈴木氏の文章には少なからず戸惑ったのだ。
だが少し後になって、以前プルーストのこうした描写について、自分も似たような趣旨のことを書いたのを思い出した。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100613/p1


だが、読み比べてもらえれば分かるのだが、私の文章の方は、観念的というか、「分析」ということに関して暗に否定的である。
作者(また語り手)が全力を傾注して(「愛情」をこめながらであるのだが)行っている、自他への(言い換えれば、他人についての内在的な)分析的描写の努力の切実さを、共感の「土台」という一語を持ち出すことによって、やんわりと「相対化」しようとしているような嫌味がある。
鈴木氏が書いていることは、似ているようだが、これとは全く逆の内実を持つものなのである。


それは、鈴木氏が、この小説に集約されるプルーストの文学の営みの全体を、どのようなものとして受けとめてきたか、ということに関わる。
氏は本書の「はじめに」の中で、『失われた時を求めて』にはじめて出会った、20歳前後の自身の心理状態について、『「私」とは何か、という問題』を抱えていた、と書いている。

この「私」は一つの呪縛だった。どこへ行っても何をしても、たとえ一杯のコーヒーを飲んでいても、私は、これを選び、これをしているのは自分だ、という感覚の周囲を堂々めぐりしていた。確実なものは、皮膚に包まれたこの肉体の内部に起こることだけで、他人の存在や考えは理解できない閉ざされた世界に思われた。しかも、この皮膚の内部の「私」の考えることははなはだ利己的で、どんなに立派な文句を口にしても、他人のために気を使っても、さらには一文の得にもならない犠牲的行為を敢えてしても、そこにはかならずいやしい計算が働いており、それが自分には隅々まで見えてしまう。(中略)
 こんなふうに「私」をめぐって思考にもならない思考を繰り返していた者にとって、プルーストが描く「私」の世界に入りこんでいくのは、たとえ簡単ではなくとも、抵抗を覚えることではない。またプルーストが皮肉に描く登場人物たちの浅はかな計算や、見栄にかられた行動も、異常と思うよりは、まるで自分自身をあざ笑うような気持ちで理解することができた。(p13)


この小説(及びプルーストの文学全体)についての鈴木氏の基本的な見方は、書き手が自らの「私」の内実を徹底的に掘り下げて言語化することによって、「私」という呪縛から出来る限り解き放たれ、他者と出会いうる世界(普遍的世界)に近づこうとする営為だった、ということであろう。
鈴木氏が何度も繰り返していることだが、作中で語り手によって辛らつな裁断を下される社交界の人々は、まさしくプルースト自身の分身でもあり、その分析的記述の底にあってそれを可能にしているものは、自己(「私」)を徹底的に解析することによって普遍的な場(他者と出会いうる世界)に近づこうとする、プルーストなりの真摯な熱情だったと考えられるのだ。
だから、この「分析」の鋭さ、「分析」という知性の営みの仮借なさこそが、プルーストの愛情を示すものであり、この人の生の熱さそのものである。鈴木氏の論点は、(私のそれとは逆に)そこにあると思う。





失われた時を求めて』を読んでいて、驚かされることの一つは、「語り手」の強力なエゴイズムである。
「花咲く乙女たち」との甘美な日々に陶酔しているときには、親友サン・ルーとの友情などまったく気にかけず、邪魔者扱いである。また恋人アルベルチーヌの急死は、当初こそ、「語り手」に言語に絶するほどの打撃を与え、それから癒えるまでの苦しい日々を強制するが、いったんその痛みが忘れられてしまうと、もはや彼女の死も(過去の)存在も、まったくどうでもいいものであるということを、語り手は隠そうともしない。
本書からの孫引きになるが、その一例を、鈴木氏の訳文から引いておこう。

女が原因と思われる不安のなかで、女自身の占める場所は僅かなものだが、これはおそらく象徴的なことでもあれば真理でもある。というのも、実際さまざまな感動や苦悩のほとんど全プロセスのなかで、彼女という人間自体の役割はとるに足りないものだからだ。あれやこれやの偶然が重なって、私たちはかつて彼女のことでそうした感動や苦悩を感じたのであり、習慣がそれを彼女に結びつけたのである。(第11巻-34〜35)

人間は自分から脱出できない存在であり、自分の内部でしか他人を知ることのない存在だ。その逆を言えば嘘になってしまう。(第11巻-63)


その酷薄さというより、その率直さに私は呆気にとられるのだ。
しかしここまで言い切って(書き切って)しまうということは、やはり酷薄ということではないのか?そう戸惑わざるをえない。
また、いったん自分の本来の仕事である文学に専念し始めるや、社交生活のみならず、友情を含めた日常生活、社会的生のすべてさえも、「真の生」(執筆の努力)を忌避するための口実でしかないものとして否定されてしまう。これもまた、強烈なエゴイズムの一つといえるだろう。


だが、鈴木氏の見方に従うならば、そうした「語り手」の自我の描写は、プルーストが自分自身のエゴイズム(「私」という呪縛)を徹底的に掘り下げ、言語化するという行為の結果だったと考えられる。
つまり、この小説で描かれている「語り手」の自我は、まったく近代主義的であり、資本主義的であり、植民地主義的であり、ブルジョワ的であり、男性中心主義的であり等々、それらの極致のようにさえ、ぼくには思えるのだが、プルーストは、そうした自己の欲望のあり方(呪縛)を否認することなく、それを掘り下げて言語化するという営みを実行したのであり、その営みによって、自らの閉じられた(呪縛された)生を、出来る限り他者へと開いていこうとした。
先に引用した「はじめに」の文章で述べられていたのは、そうしたことだろう。


そして、プルーストがこの小説で描ききった欲望のあり方は、その多くを、現代に生きる私もまた共有しているのだが、私は彼のように、自らの欲望を言語化し、その行為を通して自らの(呪縛された)生を、他者に向かって開いていこうとする努力を、幾分かでも行っているだろうか?
この作品に確かに示されたプルーストの「熱」と比べられるような、他者への真剣な希求(呪縛との対峙)を、私は自分のなかに切り開きえたことがあるか?
鈴木氏のプルースト観が、私に突きつけてくる問いかけは、そういうものである。


こうした鈴木氏のプルースト理解の特質は、終盤に書かれている、次のような文章によく示されてると思う。

考えてみれば、人間の経験や感情は、どんな場合であっても特殊なものだ。しかしもともと普遍的な生涯などというものがあるはずはないから、手がかりはむしろその特殊で個性的なもののなかにあるのだろう。仮面をかぶり自分を偽って他人に接しているときの日常的・平均的な自我ではなく、むしろ個々人をその人たらしめている最も個性的な自我をどこまでも掘り下げることによってこそ、われわれは普遍的なものを志向できるのではないか。サルトルだったらこれを「独自的普遍」と呼ぶだろう。しかもこの独自なものは、そう容易に把握できるわけではなく、張りつめた精神の緊張と創造性が要求されるだろう。いずれにしても、この「もう一つの自我の再創造」(四二ページ参照)があって初めて、人はいくらか他者に近づけるし、恋人の意識の「所有」などという幻想では逃れられなかった「私」の呪縛、自我の呪縛から、いくらか解放されるのではないか。プルーストはそう考えているように思われる。(p221)


鈴木氏は、プルーストの文学における「知性」の両義的な役割、つまり『失われた時を求めて』のなかでは、しばしば知性の働きを取り除くこと(無意志的な生の働きの尊重、それへの依拠)の重要さを語りながら、その一方で、知性の強固な働きによらなければ「語り手」が目指そうとする(またプルーストが実践してもいる)文学というものはそもそも成り立ち得ない、ということを強調する。
こうした、知性の働きや、「張りつめた精神の緊張と創造性」を重視する見方は、プルーストの文学に対する捉え方としては、抵抗を覚える人が少なくないかもしれない。
だがこれまで書いてきたように、鈴木氏は、プルーストへの強い共感のなかで、その文学を、自他の(とりわけ欲望の)徹底的な分析によって、自らの体験を言語化し、「呪縛」された生を他者に向かって開いていこうとする懸命な営為として捉えているのである。
そのような営為として、プルーストの文学は、私たち一人一人に向かって「呼びかけ」られ、私たちが生きる世界のなかに位置している*1


その自我の偏りや、あるいはまた手法の制約といったものを、現在の視点から批判することは(必要ではあろうが)容易かもしれない。
だが肝心なことは、プルーストの文学を、「呪縛」された一個の生の、そこから解き放たれようとする懸命な営為として受けとめ、それに呼応しようとすることではないか。
プルーストは、この小説によって、未曾有ともいえる広大な隠喩の王国を築いたが、その広大な領域がわれわれの前に現われたのは、プルーストという呪縛された一人の「私」の、他者に向かう切実な希求によってであり、その知性と意志による創作行為の結果としてなのである。
この個体の懸命な努力、その切実な声という側面を否認したところに、どんな文学的領域も、また思想の領域も広がっているはずはないし、またその側面を重視する態度こそが、現代を生きるわれわれに、もっとも要請されているものだろうとも、私は思う。

*1:興味深いことに、ドゥルーズ=ガタリも重視した「光学器械」という作品についてのプルーストの比喩を、鈴木氏はこうした意味合いで理解している。