『差異と反復』読書メモ・その3

第三章の「思考のイマージュ」というところまで来ると、ドゥルーズがこの本で目指しているものがかなり明瞭になってくるようなのだが、読む者にとってはその前に、とんでもない量感をもつ第二章「それ自身へ向かう反復」という大絶壁が立ちふさがっている。
ここがたいへんな難所であることは間違いない。
まともにここに立ち向かう力量は、もちろんぼくにはないのだが、自分なりに思ったことを書いてみよう。


ここでのポイントのひとつは、著者が「能動的総合」に対する「受動的総合」の先行と優位(基盤となること)を論じている点だろう。
この章の前半では、「習慣の受動的総合」、「記憶の受動的総合」という順序で、複雑精緻な論が重ねられていく。
とくに前者の「習慣の受動的総合」に関する部分が興味深い。そこでは、「生命の原初的感性の水準」における事柄として、個体(有機体)の生が、その原初的なレベルにおいて周囲の環境(自然)と混じり合っていることが述べられている。

わたしたちは、水、土、光、空気を再認し表象=再現前化する前に、しかも、それらを感覚する前にさえ、縮約された水であり、土であり、光であり、空気である。あらゆる有機体は、その受容的なエレメントにおいても知覚的なエレメントにおいても、またそればかりでなく、その内臓においても、縮約の、過去把持の、そして期待の総和なのである。(p204)


著者が主張したいことは、能動性よりも生にとって根本的なもの、さらには感覚の有無よりも生にとって根本的なものが、その受動的なあり方のうちに存在しているのだ、ということだろう。
それは、個体の生の意味を、周囲の環境(自然全体)のなかに解消してしまうということではない。むしろ、周囲の環境の全体が、表象(認識)や感覚以前のレベルにおいて、すでに個体の生のなかに存在しているということ、いわば個体が生きているということのなかに、それら周囲のものの存在が(受動的総合の働きによって)すでに含まれている、ということである。
その受動的総合をなすものとは、「局所的な自我」であるとされる。


受動的総合を考えるうえでヒントになるのは、カントについての著者の見解である。著者はカントを、「受動的な自我」が『空間を漸進的に構成していく』能力を持つと考えることを禁じることによって、『受動的な自我からあらゆる総合能力を剥奪した』(p268)と言って非難するのである。
カントは、時間と空間を、感覚の表象のア・プリオリな「形式」と考えたが、そうすることによって、自我が「感覚」以前のレベルにおいて、空間の構成にも関わる能力を持つものであるという事実を封印してしまったのだ、というわけである*1


結局、ドゥルーズが「受動的総合」ということで言おうとしているのは、個体の生が、周囲の客観的な環境のなかに切り離されて存在するというものではなく、むしろこの「受動的総合」としての生の働きのなかで、それに関わる周囲の世界や存在者もそれぞれの存在と生命を「漸進的に構成」されていく、ということではないかと思う。
私(あなた)が生きていることによって、ただし特に認識や感覚以前の根本的な生存の事実(働き)それ自体によって、周囲の世界や人々は少しずつ生を享け、構成されていく。


ドゥルーズは、たとえばニーチェに即して人がそれぞれの生を、その強度の限界において生きること、「跳躍」ということを「義務」のように語り、この章に続く第三章でも(思考や感覚の)「限界への強制」ということをさかんに書いているのだが、ドゥルーズにおける生の強度の問題が「強制」や「義務」であるというのは、彼の哲学においては(個体の)生という事実(働き)が、根本的なところですでに他者や世界全体の存在と生命を巻き込んでしまっていることに、その理由があるのではないかと思う。
ドゥルーズにおいては、生の強度や跳躍という事柄は、他者および世界との倫理(道徳の反対物)的な関係と、はじめから切り離せないものだったのではないだろうか。
「跳躍」という語を書くと、どうしてもこの哲学者の生の最後の瞬間を思い浮かべてしまうのだが。


差異と反復〈上〉 (河出文庫)

差異と反復〈上〉 (河出文庫)

*1:ただこの点について、本書の序論では、「新カント派的な解釈」として別の見解が示されてもいる。p83参照