分析の土台


この小説の重要な登場人物の一人であり、自身ユダヤ人でもあるスワンは、ドレフュス事件の展開に際して、ドレフュスの無実を信じその再審を要求する立場に立って行動することで、当時急速に反ユダヤ主義的な傾向を強めていたフランス社交界のなかで孤立していくことになる。
作者のプルーストは、自身の母親がユダヤ人ということもあり、ドレフュス支持派の立場に立って積極的に活動した経歴を持つそうだが、この小説の語り手には(彼自身はやはりドレフュス派に設定しながらも)、ここでスワンの振る舞いや心理については、まったく突き放した分析を行わせている。
つまり、ドレフュス事件の深刻な展開(反ユダヤ主義の台頭)という社会的圧力と、スワン自身の老い、そして余命いくばくもない重病に冒されたことによる衰弱などが、この優れた知性の持ち主に一種の知的な衰退を生じさせ、自分の政治的立場への硬直した閉じこもりを引き起こしていることを、冷徹に分析させるのである。
それは、ユダヤ人や民族的マイノリティ一般に対する偏見にも近いような記述をさえ含んでいる。


大貴族ゲルマント家の一員であり、語り手の親友でもある若い軍人貴族サン=ルーは、きわめて進歩的な思想の信奉者であり、またユダヤ人女性である愛人にぞっこんだった時にはいっそう、ドレフュス支持の熱弁を振るっていたのだが、愛人への熱も冷めたいまでは、軍人としての立場を重視して反ドレフュス的な意見に変わってしまったようだ。
その一方、貴族の中でもとりわけ保守的で反ユダヤ主義的な人物であると思われていたゲルマント大公は、逆に次第にドレフュスが無罪ではないかとの印象を強めていき、ドレフュスに対する冤罪は、「光栄ある軍のなかの一部が仕組んだもの」であろうと語って、スワンを感激させるのである。
プルーストはここで語り手に、大公のこうしたいわば「望ましい転向(回心)」を手放しで賞賛するスワンのナイーブな態度に対して、上記のような冷徹なまなざしを向けさせるのである。

今やスワンは、彼と意見を同じくする者なら、それが昔からの友人のゲルマント大公であれ、私のクラスメートだったブロックであれ、十把ひとからげに聡明だと見なしていた。(集英社文庫版 巻7 p247)


この小説では、社交界の人びとの虚妄に覆われた生き方は、語り手のまなざしが持つ強い分析の光に照らし出されて、あますところなく否定的に描き出されるのだが、その同じ光は、ここでスワンの政治的な態度に対しても向けられているのである。
だがそうした光は、たんに分析的であるだけではない。
むしろ、この小説から感じ取れることは、そうした「分析」というものが持つ限界、ないしは土台を、この分析の筆が強く意識している様子である。
社交界に出入する小説家」について書かれた批判的な次の一節が、作者自身にも向けられたものであることは、間違いあるまい。

そうした小説家は、ひとりのスノブ、ないしはスノブといわれる人の行動を、外側から情け容赦もなく分析するけれども、想像力のなかで社交の春が花開く時期の彼の心の内部に身を置いてみようとは絶対にしないものなのだ。(同上 p326)


こうして、この小説に示されたさまざまな「分析」は、その分析の光の外にあってそれを成り立たせている土台を、われわれの前に提示しているのだと思う。
それは、あらゆる分析や批判が、そこから生じ、そこでだけ意味を持ちうる生の土台についての示唆である。
その場所への自覚から発して、次のようなスワンの言葉も、分析の光によって相対化されることのない意味と共感を、作者によって(いやあるいはそれを越えて作品自身によって)託されていると思うのである。

ただ正直に言って、ドレーフュス事件の決着を見ないで死ぬのはいまいましい話だ。あの悪党どもは、どいつもこいつも実にしたたかな手を使ってきますからな。最後にやつらが負けるということは、疑うまでもありませんが、それでもやつらはまだまだ強力だし、至るところに支持者を持っています。何もかも実にうまくいっているときでも、とつぜんすべてが崩れてしまう。だから私はなんとか長生きして、ドレーフュスが名誉を回復し、ピカールが大佐になるのを見たいのですよ。(同上 p250)