プルーストの欲望

夏の間読むのを中断していた『失われた時を求めて』(集英社文庫)を、第9巻「囚われの女 ?」から再開。


やっぱりすごく面白くて、ぐんぐん読んでしまう。
社交界での会話の部分よりも、語り手が主観を語ったり、恋愛の心理描写をするところが、非常に込み入った文章になっていて、息を詰めて水中に潜っているよう感じで読む。それが、非常に心地よい。
隠喩の深い海、という感じだ。


アルベルチーヌは、この小説の中でも、もっとも重要な登場人物だ。
日本で映画化するならこの役は誰がいいかと考えてみたが、パリで主人公と同棲するようになってからは、年齢的にも、柴咲コウが適役ではないかと思う。

彼女は宵のあいだじゅう、いたずらっぽく私のベッドの上に丸まって、大きな猫のように私と戯れていることもあった。少し太り気味の人たちに特有の繊細さの感じを与えるこびた目つきをして、バラ色のかわいらしい鼻の先をいっそう細めると、一種茶目っ気たっぷりの火照った顔つきに変わってしまうこともあった。(第9巻 p149)


なお彼女の(主要な)モデルは、プルーストの恋人だった運転手の男性だったそうである。


いま面白いと書いたが、とくに恋愛に関するところでは、非常にマッチョ的な傾向の強い小説だと思う。
だから、そういう種類の欲望に共感できない人が読んでも、あまり面白いとは感じられないかもしれない。そして、ぼくには面白いのだ。
そうした欲望の性格は、こういう文に端的に示されていたりする。

にもかかわらず肉体的に愛するということは、やはり私の場合、多くの競争者に対する勝利を楽しむことだった。何度繰り返しても言いたりないことだが、これは何よりも心の鎮静だったのだ。(第9巻 p148)

プルーストは、欲望や恋愛を、よく植物にたとえて、見事な文章を作る。
だから、植物的、今で言うと「草食的」な欲望(関係性)を思い浮かべがちだが、この小説に描かれているものは、まったくそういうものではないと思う。
少なくとも、倫理性のようなものはまるで感じられない。


しかし考えてみると、マッチョ的であったり競争的であったりという欲望の性格は、近代文学というジャンル、というより「文学」とか「小説」という近代的な領域の中心をなしているものではないだろうか。
プルーストほど、近代というものの「欲望」の性格を、徹底的に露呈させた作家は、ほかにほとんどいないだろうと思うのだ。