緒論を読み直して

存在と無』冒頭の「緒論」というところを、少し読み返してみた。

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)



ひとつ分かったことは、サルトルがここで「反省以前的なコギト」「非反省的な意識」と言っているものは、たいへん重要で、それは認識とか反省とかに媒介されない、いわば直接的・実践的な行動の意識というもの、そういう次元における人間の生(実存)の大事さを復権させようという考えを示しているらしい、ということである。

それゆえ、反省される意識に対する反省の優位を認めるいかなる余地も存在しない。反省が、反省される意識を、それ自身に対して顕示するのではない。まったく反対に、非反省的意識が反省を可能ならしめるのである。反省以前的なコギトがあって、それがデカルト的なコギトの条件をなしているのである。同時にまた、かぞえることの非措定的な意識こそ、まさに、私の加算活動の条件なのである。(巻1 p036〜037)


もちろん、ここでサルトルは「非反省的な意識」、「非措定的な意識」という風に言っているのであって、あくまで意識の領域を問題にしている。つまり、認識や反省の優位は否定しているが、「意識」の優位(?)に対して疑問を呈しているのではない。
この「非措定的な意識」というものを、ぼくは以前は無意識のようなものと理解したが、そうではなく、あくまで「意識」なのだ。
そのことの意味は、「無意識」というような、私やその人の外部にあるようなもの(構造)に支配されるのでない、自由なものとして生を捉える、というところにあるのだろう。


これらを、やはり読み始めた頃にこだわった「非人格的」というようなことに結びつけると、サルトルは、むしろ「人格」という概念を、「非反省的」な領域にまで拡張しよう(あるいは、据えなおそう)としたのだ、といえると思う。