自由と憎悪

芸もないが、今回もちくま学芸文庫版のサルトル存在と無』から、興味深い箇所をメモ。

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)


巻2の終わりのほうだが、「まなざし」によって「対象化する/対象化される」という相克の関係が、他人に関わる自己の存在のあり方(対他存在)の本質であると考えるサルトルは、その相克的なあり方をもっとも代表的にあらわすものとして「性的欲望」というもの、つまりは人間の性的な存在(関係)のあり方を捉え、そこからさまざまな事象を記述していく。
たとえば、こんな風に書いてある。

われわれは、決して、平等の次元に、具体的に身を置くことができない。いいかえれば、他者の自由の承認が、他者によるわれわれの自由の承認を、必然的に伴うような次元に、われわれは具体的に身を置くことができない。他者は、原理的に、とらえられえないものである。(p478)


ここでサルトルは、ルソーの『私は、他人を、自由であるべく《強制し》なければならない』という言葉を引く。
自由でない状態、それゆえに不幸な状態に置かれている他人を「解放」しようとして、自由になることを促すとき、それは基本的には、他人に「自由」を「強制」することになる。ここでは他人は、「自由」ではない存在、私の働きかけの「対象」であるような存在だと見なされている。
サルトルは、上のルソーの言葉を、この『自由な政策の暗礁ともいうべき』パラドックスを定義するものだと書いている。
これは必ずしも国際関係の場(非民主的な・独裁的な国家の「解放」)だけでなく、国内外のさまざまな支援の現場で生じうる「介入」に関わる問題でもあろう。

私が慰めを与え、励ましを与えるのは、他者の自由を曇らせているさまざまな恐れや苦しみから、他者のこの自由を解放するためである。けれども、慰めや励ましのことばは、他人に対して働きかけるための、目的に対する諸手段の一体系を構成するものであり、したがって今度は、他者を、道具‐事物としてその体系の内に積分する。そればかりではなく、慰めを与える人は、一方では彼の理性の使用や追求と同一視している自由と、他方では彼にとって一つの心的決定論の結果と見える苦悩とのあいだに、一つの気まぐれな区別を立てる。そこで彼は、あたかも人が化学的な化合物の二つの構成要素をたがいに分離させるように、自由と苦悩とを分離させるために、働きかける。彼が自由を選り分けられうるものと見なしているというただそれだけの事実からして、彼は自由を超越し、自由に対して暴力を加えていることになる。彼は、そのような地盤に立っているかぎり、「自己をして苦悩たらしめているのは、自由そのものであり、したがって、自由を苦悩から解放するために働きかけることは、自由に反して働きかけることである」というこの真理を、とらえることができない。(p479〜480)


こうしたことは、もちろんヴェーユが繰り返し考えていたテーマでもあろう。
また、サルトルがこの本で言っている「自由」や「超越」という語の意味を、よく理解できないままに読んできたが、このへんにきて、ようやく少し分かってきた。
抑圧の下での苦悩を選んでいるのも、基本的にはその人の「自由」である。それを「自由」として尊重することが不可欠の条件であるが、きわめて「暴力」的である事は、他人を「解放」しようとする者が、この他人の「自由」を無視する態度・考えを、無意識に基盤としていること(場合)である。
「介入」の、まったく不可避的な(自由に対しての)暴力性に、あくまで鈍感なことである。
サルトルが非難するのは、制度的ともいえる、この鈍感さの生産だろう。
それは他者の、とらええない側面(「超越」)、つまり「自由であること」を消し去る(殺すこと、否認すること)につながるからである。


これに続く箇所では、前回の記事でも書いた「寛容」への批判が語られる。
つまり「自由の強制」(介入)が実は(他者の)自由に対する暴力であるからといって、逆に一見他者の自由を尊重するものに見える「放任」や「寛容」の思想が良いものであると考えてはならない。それらもまた、「自由」としての私が他者を制約する、一つのあり方に他ならない、ということである。

私が存在する瞬間から、私は、他者の自由に対して、一つの事実的限界をうち立てる。私はこの限界である。(p480)

われわれの出現は、他人の自由に対する自由な制限である。(p481)


こうした基本的な認識から、サルトルはさらに「憎悪」というものについて興味深い洞察を展開する。
サルトルによれば「憎悪」は、他人とのこうした相克的な関係を率直に見つめた意識が、空しい努力と挫折の果てに示す、「根本的な諦め」を含んだ一つの(決然とした)態度である。

この対自は、ただひたすら、事実的限界をもたない一つの自由を、ふたたび見出そうとする。いいかえれば、この対自は、とらえられない自分の「対他−対象−存在」を除去し、自分の他有化的な次元を廃止しようとする。それはつまり、他人の存在しない一つの世界を実現しようと企てるのも同然である。(p483)


憎悪する者は、他人の存在を自己の安定のために利用するという、自己と他人との「自由」の欺瞞的な共存が、決して実現できない理想であるという事実を、率直に認めざるを得ないところに追い込まれた人である。
「平等の次元」「自由と自由との共存(友愛?)の社会」は欺瞞であるということを、今やこの人は思い知ってしまった。
そこで「憎悪」は、「嫌悪」とは違って、他人のあれこれの性質や行動などではなく、「他人の存在全般」を憎悪するものである。この意味で、「憎悪」は他人の存在を、その全体において見出している(執着している)ともいえるが、だがそれは、「対象」としての限りにおける他人であると、サルトルは言う。

憎悪は、この対象を破壊することによって、同時に、それにつきまとう超越を抹殺しようとする。(p484)


憎悪の中核には、他人の「超越」(自由)に対する否認があるのだ。
人は憎悪に執着することによって、超越(の可能性)から目をそらしていようとする。
ここにも、ヴェーユの思想との類似が見られる気がする。


ともかく、ここでサルトルは、「憎悪」に、かなり強い意味づけをしている。
それは、「平等の次元」のリベラルな理想よりは、対他存在の本質に忠実な、少なくとも率直な態度であるようにみえる。
だがこうしたものとしての「憎悪」は、根本的には、「他者全般」の抹殺を図ろうとするものである。
そこで私は、誰かを憎悪する人間を目にすると、不安に襲われざるをえない。

或る人がいま一人の人に対して憎悪をいだくとき、私はそれを非難する。そのような憎悪は私を心配させる。私はそのような憎悪を抹殺しようとつとめる。というのも、たとい私が明らさまにかかる憎悪の的になっていないにせよ、私は、かかる憎悪が、私にかかわりのあるものであり、私の意に反して実現するものであることを知っているからである。事実、そのような憎悪は、それが私を抹殺しようとする限りにおいてではなく、それが罷り通るには何よりもまず私の非難を呼び起こすかぎりにおいて、私を破壊することをめざしている。(p486)


この言い回しは分かりにくいが、ここでサルトルナチスの存在を考えていないということは、ありそうもないことだろう。


こうして、憎悪は、一つの率直さのあらわれではある。
だがそれは、超越(自由)の否認を根本に含むものであり、すべての他者の抹殺へと突き進むものである。
そして、憎悪という、『他人の存在しない一つの世界を実現しようと』する企ては、これもやはり必ず挫折せざるをえない企てであるとサルトルは言う。
それは、たとえ他者が抹殺されたとしても、かつて他者が存在していたという事実によって、すでに憎悪する人は決定的に「汚されて」しまっているからである。憎悪は、この他者による「汚染」からこそ発しているのだから、それを否認することはもはや不可能なのである。

彼は、自分がひとたび他有化させたものを、奪回することができないであろう。(p487)


この巻2についてのノートは、まだもう少し続けます。