『私家版・ユダヤ文化論』

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)


この本の最後に近いあたりで、著者は「ユダヤ人問題」、すなわちなぜユダヤ人と呼ばれる人々が「反ユダヤ主義者」等による憎悪と迫害の対象になるのかという問いの答えを、最終的にはユダヤ人と非ユダヤ人との「知性」のあり方の違いに求め、両者の知性の「隔絶」を、次のように概括している。

この隔絶は、(中略)別の言い方をすれば、「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、「私はここに遅れてやってきたので、<この場所に受け容れられるもの>であることをその行動を通じて証明してみせなければならない」と考える人間の、アイデンティティの成り立たせ方の違いのうちに存している。(p228〜229)


だが、このような「隔絶」なら、別に「ユダヤ人問題」に限らずとも、それどころか必ずしも民族的・人種的集団間の差異に限らずとも、どこにでも見出すことができるだろう。
また、前者の「人間」と後者の「人間」との間では、(著者がなぜかユダヤ人問題に限定して書いているように)「知性」の能力において、非常に大きな隔たり(もちろん、それ自体は構築的なものだ)が生じるのがしばしばであるということも、どこででも確認できる一般的な事実だといえる。
マイノリティーと呼ばれる人々は、必ず自分をこの社会に「遅れてやってきた」と考えざるを得ないはずであり、したがって自己の根底を常に問い直すような強力な知性の運動を(程度の差こそあれ)引き受けざるをえない。著者が示唆しているように、それが特に「知性的」であると私たちに思えるのは、人間の「知性」とは元々そうした状況に端を発する人間の精神の営みだからかもしれない。


これはたしかに、経験的にいえることである。この「隔絶」が、著者が本書の中で膨大なユダヤ人の人名を列挙して記述しているような目だった(実績上の)隔たりとして現れていないとすれば、それはその社会が欧米よりも少数者に対して差別的だからだろうし、また人がその構築的な「隔絶」の普遍性(ありふれていること)に気づかないとすれば、それはその人がよほどマジョリティー呆けしているか、それとも何か深層心理的な理由があるかのいずれかだと思わざるをえない。
だが、こうしたありふれた差異を、著者はなぜか、「ユダヤ人問題」という特殊歴史的な事柄の原因として示そうとする。
逆に言えば、「ユダヤ人問題」の本質を、特殊歴史的な事情(状況)のなかで捉えようとする試みは、最終的には放棄される。ある特殊歴史的な具体性が、ここではあくまで、「ありふれた」ものを可能にする論理、構造の普遍性のレベルの論理へと脱色されて、考えられ語られてしまっているのである。


普通に考えれば、反ユダヤ主義をめぐって著者が提出している、「なぜ反ユダヤ主義はなくならないのか」といった問いは、そもそも「キリスト教のヨーロッパ」というやはり特殊歴史的な条件との関連においてしか意味をなさない、少なくとも具体的な意味を持ちえないであろう*1
だが、そういう特殊歴史的な文脈において、この問いを考えることを著者はまるで拒絶しているかのようであり、この問いを、あくまで(究極的には)普遍的あるいは構造的なものとして考えようとしている。


だから、この本においては「反ユダヤ主義」の思想としての特質も、その構造的な同型性において、たとえば(近代以後の反ユダヤ主義の場合)マルクス階級闘争史観が持っている欠点、非合理性のようなものと等置されることになる。
(近代的)反ユダヤ主義は愚かだが、その愚かさは、マルクス主義を含む全ての「陰謀史観」的な思想に共通する愚かさのひとつであり、そうした愚かさ(非合理性)を、われわれ人間は決して免れることができない。
この、自己(人間)の非合理性からの脱却の不可能性を深く自覚することだけが、反ユダヤ主義的なるものを真に抑制することを可能にする道である。
著者はおおむね、このように言っているように思える。


こうした著者の思考の理路においては、現実を構成する何か重要な要素が、手のつけられないほどの頑なさによって、はじめから拒まれ、排除されてしまっているという印象を受ける。
この排除の頑なさの代償であるかのように、著者は構造的・形式的な真理を静かに、滑らかに語り、ある種の諦念を読者に勧める。
拒絶され、拒まれているのは何かといえば、事柄の歴史性、歴史の中の一回的な出来事しての性格であり、欧米のユダヤ人の置かれた状況は、ここではその特殊歴史性(出来事性)を脱色された形で描き出される。
著者は、人間の存在を構造と歴史との二つの相に分けて、前者(構造)の方が重要だと言っているわけではなく、歴史を歴史として語っているようでいてその実構造としてしか語らないのである。
歴史的な存在である人々が、ひたすら構造的にのみ考えられ語られて、その差し引きとして、人々の歴史的な現実存在の「空虚さ」だけがキャンバスに描き出される結果となる。


いわばユダヤ人たちの存在は、ここでは描かれているけれども、ある意味では描かれても考えられてもいないのだ。
あえていえばここでは、ユダヤ人という具体的存在の不在、いや、あらゆる具体的な人間存在の「不在」こそが語られ、(恐らく欲望され)主張されている。
その主張が要請されるのは、おそらく書き手自身が、こうした人間の存在のあり方をなぜか否定したいという、強い欲求を有しているからだろう。


もちろん、そうした欲求にもとづく言説というものは、あってもいっこうに構わないであろう。
だが問題は、この言説が、ある種の「抹殺」の効果を現実に生じさせているということである。
そこに、著者の言説、とりわけこの書物が、欧米と日本の反ユダヤ主義や、日本社会の排外主義的な性格についての、数多くの卓見を含んでいるにも関わらず、それを批判しなければならない必要性が出てくる。
少し具体的に見てみよう。






著者の物言いで、一番途方に暮れてしまう部分、なにか度し難い頑なさを感じさせられるのは、たとえば次のような箇所だ。

ユダヤ人差別には現実的な根拠がない。にもかかわらずそれは自然の理法に従って消失することなく、執拗に回帰してきた。現実をどのように改変しようと、無傷のままに残る幻想的根拠がどこかに存在し続ける限り、反ユダヤ主義はこれからも繰り返し回帰するだろう。
 あらゆる現実は歴史学的・物理学的な因果関係のうちに生起し、あらゆるイデオロギーは社会構築的であると信じていられる人は、歴史的現実とかかわりなく生成し棲息する幻想的な憎悪や恐怖のあることを認めたがらない。しかし、私たちが以前に「日本における反ユダヤ主義」の歴史をたどったときに学んだように、「そこに存在しない社会集団に対する幻想的な同一化と恐怖」が現実的に政治的に活発に機能するということはありうるのである。
 私がユダヤ人問題を論じることで確認したいのはそのことである。(p167〜168)


歴史的現実とかかわりのない「幻想的な憎悪や恐怖」が存在すると認めることにしよう。
だがそれは、社会構築的に現実を考えることと、本当に矛盾するだろうか。
社会を改変していくことは、「繰り返し回帰する」であろう反ユダヤ主義的なものの阻止が必要であるとする立場に立つのなら、改変のみによってはなくならない幻想的な根拠が人間の心のなかにあるというシビアな認識と、決して矛盾しないはずである。少なくとも、そういう認識を持っている社会改革論者(革命論者と言ってもいいが)の方が多数であると、ぼくは考える。
だが著者は、そのような社会改革論者の存在することを、あたまから認めたくないらしい。
社会改革を切実に主張することは、消え去らないであろう「幻想的なもの」についての敬虔でシビアな認識と、必ず矛盾するはずであると、思い込みたいらしいのである。
ここには、自己の生存の歴史的・政治的な具体性への自覚に基づいて、ときには性急に、社会の改革を求めるような人たちへの、著者の頑なな反感を見てとれると思う。


ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の歴史についての詳細な叙述の後に、著者はこう書いている。

勘違いしてほしくないが、私は彼らを擁護しているのでも弁明しているのでもない。そうではなくて、彼らは今も生きているという事実、彼らのようなタイプの思考の型に魅惑されてしまう要素が私たちのなかに今も息づいているという事実を直視しない限り、「ユダヤ人問題」の本質に接近することはむずかしい、ほとんど絶望的にむずかしいということを言いたいだけなのである。(p154)


そうした思考が「今も生きているという事実」は、この本の内容と著者の文体をみれば、ただちに納得できる。
それは、著者の思考が、明示的な意味で「反ユダヤ主義」に類するものだということでは、無論ない。
次のようなことである。


この本から強く伝わってくるのは、歴史的な現実性(への関わり)を、頑なに拒もうとする、書き手の非合理的な意志である。
したがって、上の文章で著者が書いていることの意味(メッセージ)は、実際には、「この世界には、私の(文章の)ような精神(社会構築的な発想の外部にある精神)が、今も現実に息づいているのだ」ということ、言い換えれば、「私の現実存在は、歴史に対して無罪だ」ということであろう。
とすると、この本の論述の内容は、一見ユダヤ人や反ユダヤ主義者という、他人の存在を扱っているようでいて、じつは徹頭徹尾、著者のそうした欲望を開陳したものに他ならないことになる。
著者の論述が、歴史的な条件への参照を拒んで、構造的な分析に終始しているのは、そのことの現れである。歴史を参照することは、書いている私の存在を、歴史的な現実のさなかに召還することを余儀なくしてしまうだろうからである。
著者の文章は、自己の存在の非(超)歴史的なリアリティーを確認したいという欲望に、狂おしいまでに突き動かされている。


このことは、先にも書いたように、元来歴史のなかに生きているはずの、対象である他人たちの存在の、歴史的な部分(意味)を否定してしまうこと、言い換えれば、「抹殺」という効果を生む。
それは、著者の思想と文章が、自己の生存の歴史性への抑圧と否認を強い動機としていることに起因しているだろう。その記述は、狂おしいほどに、自他の存在の歴史性の否認を求めて運動し、反復し続ける。


このような、自己の存在の根拠を何がしか歴史の外部に求めようとする型の思想は、かりにそれを語る当人が差別や迫害を受ける側の当事者であったとしても、自他の存在へのなにがしかの暴力的な否定(破壊)を含んでしまうものであることは、端的に言うならばシオニズムが中東にもたらしている惨禍を見るなら明らかだろう。
あまつさえ、内田樹は、ユダヤ人ではないではないか。
それが、私が著者の言説を「抹殺的なもの」と呼ぶ理由である。

*1:「日本の近代にも反ユダヤ主義はあった」といった話は、このことへの反証にはなりえないだろう。