サルトルの肉体論

存在と無』第三部第三章のなかのある部分で、サルトルが「性的欲望」についてあれこれと語っているところがあるのだが、たいへん面白い。


サルトルは、人間の性欲を、性的行為に限定されない、私と他人との身体の関係に関わるものだと考える。そして、人間(対自)の行動に関わるものとしての「身体」と、たんなる事実性としての「肉体」とを区分したうえで、性欲のさまざまなあり方を分析していく。
まず性的欲望を、サルトルは「混濁」という言葉で表現する。意識が、自分の存在の偶然的な事実性、つまり「肉体」であることに屈し、それに溺れていくこと、それが性的欲望のあり方、性欲にとらわれる意識のあり方だという。
カフカの『城』の主人公が、城の中庭にとめてある馬車の中で抗しがたい睡魔に屈していくように、人は肉体としての自分の存在に溺れ、それに従属していく。
これはたしかに、「意識の明証性」の立場から、「混濁」としての意識のあり方を批判しているようにもとれる言い方である。


さらに他人に向けられたものとしてとらえるなら、性的欲望は、また他人をも、その身体を「たんなる肉体」として存在させようとする試みである、とされる。
そのもっとも代表的な、というより本質的な方法は「愛撫」である。

他者を愛撫するとき、私は、私の指の下に、私の愛撫によって、他者の肉体を生まれさせる。(松浪信三郎訳『存在と無』巻2 p433)

しかも愛撫は、他人の受肉を実現することによって、私自身の受肉を、私に発見させる。(p435)


そこからサルトルは、性的欲望の「意味」を、対自が自らを世界のなかで「受動的な存在」たらしめようとすること、自らの存在の事実性にからめとられ従属しようとすることであると考える。

対自は、自己の身体を別の仕方で存在するべく、また、自己の事実性によって自己をねばねばさせるべく、みずから決意するからである。(中略)いいかえれば、私は、世界のなかの諸対象に対して、私を受動的ならしめる。(p437〜438)

欲望的な態度で一つの対象を知覚することは、この対象において私を愛撫することである。かくして、私は、対象の形態に対してよりも、また対象の用具性に対してよりも、むしろ対象の素材に対して、いっそう敏感になる(ぶつぶつがある、すべすべしている、なまぬるい、あぶらぎっている、ざらざらしている、等々)。私は、私の欲望的な知覚において、諸対象の肉体ともいうべき何ものかを発見する。私のシャツが私の肌に触る。私はそれを感じる。ふだんならば私にとってもっとも遠い対象であるシャツが、直接感じられるものとなる。空気の暑さ、風のそよぎ、太陽の光線、等々、すべてが、私のうえに距離なしに置かれているものとして、私に対して現前的であり、そのものの肉体によって、私の肉体を顕示する。この観点からすれば、欲望は、ただ単に、事実性が意識をねばねばすることであるばかりではない。それと相関的に、欲望は、世界が身体を鳥もちでとらえることである。世界は鳥もちのはたらきをするものとなる。(p438)


官能的な記述である。
性的欲望は、自分の存在(意識)を、「肉体であること」(事実性)に従属させようとする試みであると同時に、欲望する相手である他人をも「肉体たらしめよう」とすること、つまり他人自身の「肉体であること」に他人の意識を従属させようとする試みだとされる。
愛撫において、私と相手とは、互いに「無気力」な身体となり、相手の「肉体意識」を目覚めさせようとする。

それにしても、肉体相互に対しての肉体相互による、肉体の開花こそは、性的欲望の真の目標である。(p449)


「無気力」なもの、行動とむすびついた(デカルト的な)「身体」の対極としての「肉体」の存在を、否定的な形ながら、これほど執拗かつ克明に描こうとする哲学者も稀ではないだろうか?
さらに、次のように言う。

ことに、ペニスやクリトリスの勃起が、そのあらわれである。事実、それらのものの勃起は、肉体による肉体の肯定より以外の何ものでもない。それゆえ、絶対にそうでなければならないが、勃起は意のままに起るものではない。(中略)ここで問題なのは、生物学的自律的な一つの現象であって、この現象の自律的不随意的な開花にともなうところの、すなわちこの開花の意味するところのものは、「身体のなかへの意識の埋没」である。(p449)


ここでは、サルトルは、われわれの「性的欲望」の本質を、上記の自己を「受動的な存在」たらしめること云々ということから引き続いて、「肉体」の「不随意性」ということ、そして「植物的な生命の発現」(p450)といった言葉によって捉えようとしているのである。
もちろんそれは、行動に関わる「身体」との対比において、否定的にではあるが。


さらに、この「肉体」についてのサルトルの考えは、サディズムに関連して「猥褻」を語る部分で、より明瞭に示されている。
サルトルにとって「猥褻」とは、身体が行動や状況から切り離され、不適合なものとしてぶざまにさらけ出されたような状態で生じてくるものである。

それにしても、もし身体が全体として行為の内にあるならば、事実性は、まだ肉体ではない。身体から完全にその行為という衣服を脱がせ、その肉体の惰性を顕示するようなもろもろの姿勢を、身体が採りいれるときに、猥褻があらわれる。(p461)

私が状況をとらえるまさにその瞬間に、この状況を破壊するところの或る特殊な適合喪失。肉体をおおっているいろいろな「しぐさ」という衣服の下にあらわれる突然の出現としての肉体の無気力な開花を、私にひきわたすところの或る特殊な適合喪失。しかも、私の方では、この肉体に対して性的欲望をおこしていないのに、そのような肉体の無気力な開花を、私にひきわたすところの或る特殊な適合喪失。それこそ、私が猥褻と名づけるであろうところのものである。(p462)


こうした、いかなる用具性も持たない「余計なもの」(p461)、身体の単なる偶然的な事実性としての「肉体」の存在を、サルトルは繰り返し語る。
それらの文章からうかがえることは、サルトルが、おそらく誰よりも、そうした存在の事実性、とりわけ自己の存在の事実性(鳥もち)に深くとらわれていたということ、深くとらわれていることを誰よりも強烈に意識していたに違いない、ということである。
この事実性の桎梏から身を引き離すために、サルトルは徹底してこの「鳥もち」に奥深くもぐり、その構造を見極めようとする。その振幅が、この本に示されたサルトルの思想の力の源泉になっている。
そこで逆説的にも、サルトルが否定し乗り越えようとした、「受動的な存在」であり「不随意的」で「余計なもの」にも見える、人間の「肉体」というもののリアリティーが、他ならぬサルトルの思想の言葉のなかでこそ、他のどの書物におけるよりも輝きを放っているように見えるのは、偶然とはいえないだろう。