サルトルの「人格」再考

存在と無』の巻1をやっと読み終わったが、よく分からないことばかりなので、読み返している。

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)


先日、「非人格的」という語について、サルトルの場合も、この語が肯定的な意味で用いられているのではないかという予想を書いたが、どうもそれは当たっていないようだということが分かった。
というのは、最初読んだ時には注意しなかったのだが、この本の302ページから306ページぐらいのところに、「人格(的)」とか「非人格的な」という訳語が集中的に出てきていて、その部分を読むと、よく分からないながらも、とにかく「人格」という語は否定的な意味で使われてはいない、ということが分かる。
この部分では、「意識のうちに住むことができない」(つまり、観想的ではありえない、ということだろう)ものとしての「自己」「自己性」の役割が強調されていて、或る存在(人間のことであろう)に「人格的な存在」を与えるのは、「自己への現前として、対自的に存在するという事実」(p303)だという風にも書いてある。
自己(性)とは、意識が対自的に(つまり自分の外の現実との関わりにおいて)存在するという事実、そのことによる「無化作用」(安定の喪失、というようなこと)によって生じるものであり、そういう意識の根本的な不安定さを示すものとしての「自己性」を否認し、意識自身を実体のように見なそうとすることから「自我」というものが作り出される、ということのようである。
そして、この「自己」という対外部的な意識のあり方を示す概念と、「人格」という語とが、ここでは重ねて用いられているようなのである。

事実、自己との自由な関係としてでなくして、どうして人格を定義することができようか?(p304)

世界は、本性上、私の世界である。世界がなければ、自己性もなく、人格もない。また、自己性がなく、人格がなければ、世界もない。(p305)


意識の不安定なあり方、サルトルのいう「自由」につながるその本性と、「自己」や「人格」というものとは、ここではとにかく結びついている。
それは、「人格主義」というようなものとは違うだろうが、人間(私)の「自由」を生み出す基盤として、自分(意識)自身の不安定さを否認しない現実的・積極的な生き方を示すものとしての「人格」という概念が、ここでは打ち出されているように思えるのである。