『日本と朝鮮半島2000年 朝鮮通信使』

ETV特集の「日本と朝鮮半島2000年」、今回は江戸時代の朝鮮通信使を扱ったもので、たいへん見応えがあった。


秀吉の朝鮮侵攻による惨禍の影響が大きく、それ以後疎遠であったことも手伝って、お互いの間に(特に日本側の)無理解や、反感、わだかまり、偏見もあったが、通信使の人々が日本の学者・武士や庶民と長期間交わるなかで、それを突き破るような認識・感覚が生まれるようになったという話。
番組では、通信使一行を迎えた瀬戸内沿岸や琵琶湖周辺の事例における歓待と交流の様子も、詳しく紹介されていた。
岡山や香川などの沿海部、あるいは近江八幡彦根や、雨森芳州ゆかりの地でもある現在の高島市周辺などに行ったり、その土地にゆかりのある人と接したりしたときに感じる、何か独特の開かれた雰囲気、その有力な文化的ルーツのひとつは、こうした秘められた歴史のなかにあるのかと、空想したりもした。


だが、そういうものは大概、出会いによる一瞬の認識(感覚)のようなもので、それを継承していくというのは、ほんとうに難しいのだと思う。どちらかというと、それを隠蔽する方向に力が働く。
番組の最後に、岡山の牛窓の方に伝わる「唐人踊り」という舞踊があり、それは言い伝えでは神功皇后の「三韓征伐」のときに、帰路兵士たちのなぐさみのために捕虜として連れて来た子どもたちにこの地で踊らせたのが起源とされているそうだが、最近、資料から、実は朝鮮通信使の折の交流に由来するものだという説が出されているらしい。
そうだとすると、貴重な「交流」や「理解」の記憶が、侵略と支配の、権力への賛美の物語に塗り替えられて伝承されてきた、ということになる。
一事が万事、このように歴史は抑圧され塗り替えられ、作り上げられてきたのかと、暗澹とした思いになる。


これは、そうしたことも考えさせるような番組だった。
ともかくも、お互いが日常的に接して、よく理解しあうことの大事さは、何度強調してもしすぎるということがないだろう。


ただ、通信使を、現代の韓流ブームと重ねているところは、やはりちょっと違うような気はした。
番組のなかで紹介されていたが、文化の交流といっても、あの時代のそれは決して一方的な消費ではなく、お互いに自分を相手のまえに、対等な場所でさらし、ときには批判しあうような実質を持っていたはずだ、と思われるからである。


そこで思い出したのは、最近たまたま読んだ、次のような話である。
大正の初め頃のこと、大阪の歌舞伎役者、中村雁治郎(小津の映画などで有名な二代目ではなく、初代であろう)が、北海道にはじめて巡業に行った折り、旭川の近くのアイヌコタンを訪ねたことがあったそうだ。
その文では「見物」に行ったと書いてあったが、町から何キロも離れた山中にあったその場所まで、雁治郎は荷車に酒樽を積み、現金や色々な品物をプレゼントとして携えて行って、伝統芸能や祭事のようなものを見せてもらったらしい。
これは、アイヌの集落において、そういう観光(見世物)的な扱いが一般化していたのかもしれない。あの「人類館事件」に代表されるような扱いを、すでにアイヌの人たちが受けていたことを示しているのかも知れないのだ。
また、雁治郎は「言葉も東北弁のひどいようなもので、通じないだろう」と思って行ったところ、みんな江戸風の言葉を喋ってたので驚いたと書いているが、言葉の面でもアイヌの言葉が奪われていく過程がすでに進んでたのではないかと思われる。


ただ、この文によると、このとき雁治郎は、この村でたいへん歓迎されたそうである。
そして、雁治郎は、アイヌの人たちの「耳」(音楽的な)が抜群にすぐれていることに驚いている。どんな音や音楽でも、一度聞くと、たちまち習得し、自分のものにしてしまう。
雁治郎が頼むと、興が乗ったのか、流行歌や浪花節まで、見事に歌ってくれたという。
このとき、雁治郎に、自分たちの言葉や音楽でなく、支配者の言葉や音曲を歌わねばならない人たちの心境を理解するための、知識があったかどうかは分からない。
だが、そうした知識に媒介されて理解可能となるものよりも、抑圧された人々のもっと深い悲しみや喜びを想像する何かを、雁治郎は持っていたのではないか。


というのは、やはり当時の歌舞伎役者というものは、もともと芸能の民であり、社会のなかで被差別的ないし辺境的な場所で生きている者という自意識があっただろう。
いやそれ以上に、舞台の上でも、日常においても、人々の視線にさらされ、いわば対象化されて「見世物」のように生きる苦渋を、肌身で知っている部分があったと思うのである。
そして、そのことをアイヌの人たちも直感的に理解したからこそ、こうしたおおらかな「交流」が、そこで生じたのではなかったろうか?
真に対等な立場で、人と人が理解し合い、のみならず感じ合う、感化し合うということは、きっとそんなことであろう。


そのときはじめて、そして腹立たしいことだが多分そのときにだけ、「突破」の可能性、この社会の現実の権力秩序と無理解の壁を突き破って、広々とした場所に人々が船出する可能性は、見出される。
だが無論、そうした「交流」や「理解」は、社会のメインストリームにおいては、伝えられていくことは極めて少ない。
それはその都度、ぼくたち自身が、日々の中で、穴をうがち、新たに見出し続けるしかない可能性の光なのだ。