チェーホフの『曠野』

子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)

子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)


チェーホフは、社会問題に深い関心のあった作家だと言われており、実際その通りだろうと思うが、中篇『曠野』を読んでいて分かることは、彼にとっての「自然」と「社会」とが、ある意味で分離できないものだったということだ。
この作品では、ロシア南部の広大な「曠野」の光景が、これから未知の世界に投げ出されて生きることになる少年のまなざしを借りて描かれるのだが、この「曠野」とはまさしく少年の眼前に広がるであろう世界そのもの、生そのものであり、したがってある深い意味での「社会」そのものだとも言える。
実際、この「曠野」は、そのような過酷な力の場としても描かれている。
また、そこは人間と動物とか、現実と空想というような境界が消え去り、混合して生成しつづけるような、ダイナミックな空間でもある。
要するに、ずっと後にドゥルーズガタリが「器官なき身体」と呼んだ、社会のある種の相、一見内省的とか退行的という風にも見えるが、同時にある真実さと力強さをもった社会的生存の造形のようなものとして、この「曠野」の光景は、描かれているのだ。

こうして一時間、二時間と馬車で行く・・・。途中、寡黙な老人のような古墳や、誰にいつ据えられたともわからない石像に行き合ったり、ひっそりと地面すれすれに夜鳥が飛び過ぎたりするうちに、少しずつ、曠野の伝説や、出会った人びとの話や、曠野そだちの乳母から聞いた物語や、この目で見、心に感じたあらゆることが思い出されてくる。そういうときにこそ、虫の声、怪しい影や古墳、深い空、月光、夜鳥の飛ぶことのうちに、そして見聞きするあらゆるもののうちに、美の極致、若さ、力の横溢、生への渇望を感じ始める。心は、すばらしい、厳しいふるさとに応えて、曠野の上を夜鳥に混じって飛んで行きたくなってくる。この美の極致、みなぎる幸福感のうちにも、人は緊張と寂寥とを感じるに違いない。まるで曠野が孤独であることを自覚し、自分のゆたかさもインスピレーションも、誰にも歌われもせず誰にも必要のないものとして空しく滅びてしまうのを意識しているかのように。喜ばしい轟きを通して、人は曠野の物悲しい、絶望的なまでの、歌い手はいないか、歌い手は、という訴えを聞くかのようだ。(p253〜254)

彼は口から魚の尻尾を引き出して、いとおしむように眺めてから、また口へ押しこんだ。噛みながら、歯を鳴らしているのを見ると、エゴールシカは目の前にいるのが人間ではないような気がした。ワーシャの膨れた顎、どんよりとした目、並みはずれた鋭い視力、頬張った魚の尻尾、カマス(原文は漢字)を噛んでいるやさしいようす、こういったものが彼を動物じみたものにしていた。(p282)

柄の小さい、一本立ちのできない人間特有のそんなものは、ワルラーモフの顔つきにもようすにも少しもなかった。この人自身が値を決めるのだし、誰をも探しまわったりせず、誰にもすがったりしない。見かけがどんなに平凡でも。あらゆる点に、鞭の持ち方一つにも、力の意識、曠野にたいする慣れ切った力が感じられた。(p327)