政治的なものの排除について

国民の過半数朝鮮学校無償化除外を支持している事実に私たちはどう立ち向かうか


http://civilesocietyforum.com/?eid=3632


この事について考えるとき、この「除外」を非難するにあたって、「すべての子ども(学生)が対象とされるべきなのに、朝鮮学校の生徒だけが外されるのは差別である」という考え方と、「これまでも差別や排除をこうむってきた朝鮮学校の人たちだからこそ、この排除(除外)は許せない」という考え方とがあるだろう。
私はこれまでどちらかというと後者に力点を置いて書いてきたと思うが、この二つの考え方にはやや重ならないように見える点があるとはいえ、そこで言おうとしていること、願われていることは突き詰めれば同じはずである。
その同じところが何なのかをより鮮明にするためにも、あらためて書いておきたい。


まず、これまで語られてきた「除外」の理由として、もっとも明確に述べられているものは、「拉致問題」の未解決ということだろう。
「国交がないから」とか「各種学校の扱いだから」というのなら、日本には朝鮮学校以外の民族学校がいくつもあり、そのなかには台湾のように日本と国交のない国の民族学校も含まれているわけであるが、それらが「無償化」の対象から外されるという話はまだ聞いていない。
すると、朝鮮学校だけが外されるという理由は、朝鮮学校朝鮮民主主義人民共和国と短絡的に結びつけた上で(この短絡そのものが差別であり政治性だと、私は繰り返してるわけだが)、(歴史のなかで)現在生じている両国間の問題、つまり端的には拉致問題であるというのが、これまで政治家によって述べられてきたなかでは一番整合性のある言い分だろう。というか、他のものは荒唐無稽である。


すると、拉致という政治問題を理由として、日本国内の学生たちに対して(上に述べたように)広く行われようとしている政策から、ある学校の生徒たちだけを除外しようとしているわけだ。
ここでは、「政治的な問題を理由に学生たちのなかに除外の線引きを行うことは許されない」という主張は、まったく正しい。学生たちは、まだ政治的な権利を何も持っていない。
その人たちの場にまで政治による区分を(まして政策において)持ち込むことは、そのこと自体が許されない暴力なのだと、私も思う。


いま「政治的な権利を持っていない」と書いたが、これは学生たちが何か政治的な主張をしたり、考えを持つべきでない、という意味ではない。
むしろそれらは多くの場合、持つまいとしても、周囲の不当な(差別的な)現実によって、持つことを余儀なくされるものだろう。政治的な不当に対しては、無論誰でも政治的に闘ってよいし、そうするしかない場合があるだろう*1
ただ、だからといって学生や子どもたちを、政治による線引きの対象とし、政治的な理由にもとづく政策上の排除の対象としてよいことにはならない、という意味である。
弱者に「政治的である権利」を認めることと、「(支配的な)政治から防御される権利」を認めることとの、この両立が承認されなければ、この問題についての理解も不十分なものになるのではないだろうか?
つまり、不幸にして私たちの社会は、自らを守るために政治的であらざるをえない人たちが多く居るような、悪しき政治的社会だ、という事実の承認である。


朝鮮学校について、その存在なり教育の内容なりが「政治的」だという趣旨の批判が多くなされる。
これは朝鮮学校の教育の現状を知らない人たちの偏見にもとづくものだと思うが、それにしてもひとつのことを、あらためて強調しておきたい。
それは、日本における在日朝鮮人(かつて日本の植民地支配を被った人たちだ)の民族教育が、朝鮮という国と結びつきをもってきた大きな理由は、まず日本政府がこれらの人々になすべき補償も援助も行わず、社会も差別的なまなざしを変えなかったということ、次には韓国政府も在日同胞の民族教育に対して長らく熱心でなかったことである、という点だ。
そのなかで、つまりは孤立無援の状況のなかで、(その政治的な意図はどうあれ)唯一民族教育に支援の手を差し伸べたのが朝鮮の政府だった。
そのため、朝鮮学校は長らく朝鮮という特定の国との結びつきを保ってきたのである。
またそこには、戦後の国際関係のなかで朝鮮という国が置かれてきた特殊な位置も関係している。だから、この国と朝鮮学校との間にあった特別な結びつきを何か偶発的なものと考えて、こうしたネガティブな要素(他国からの援助がなかったこと)にそれを還元できると思うことも、きっと違うのだろう。
冷戦下において、日本という差別に充ちた旧宗主国とは別の陣営に属し(この点が韓国とは違った)、しかも民族の独立を標榜していたこの国家に、日本で差別と貧困にあえいでいた人たちの多くが、何らかの希望を託したであろう事は想像できる。
そしてその希望の強さは、やはり私たちが行ってきた加害と冷酷さの、裏面でもあると思うのである。


だがいずれにせよ、朝鮮学校が長く朝鮮という国との強い結びつきのなかで教育を行ってきたということ、多くの子どもたちが、その教育の場を、日本社会の差別に対する防御の空間とせざるをえなかったということは、日本の側に大きな原因がある。
また、国家との結びつきということを別にしても、そこに通う人たちや保護者たちが、差別や迫害から自分たちを具体的・精神的に守る方途として何らかの政治性を身につけざるをえなかったということは、やはり日本の側の差別性ということと切り離しては考えられないはずだ。
にも関わらず、今行われようとしていること、いや「検討の対象にする」という形ですでに実行されていることは、在日の人たちがいわば日本の社会によって押し付けられた「政治的であること」を理由として、「無償化」という市民的(ある意味での非政治性を標榜している)な空間から、この人たちを排除するということなのだ。
いわば、この人たちがいやおう無く帯びてきた政治性(政治的であること)が、私たちの国と社会への告発であり、私たちが安易に標榜する「市民的」な考えへの異議である。その異議を聞き取り、踏まえたうえで「市民的」な政治の場を実現してくれと、この人たちは望んでいると、私は理解する。
ところがなされるべきその市民的な空間の形成にあたって、私たちはこの告発と提起の声を目障りだと言って押し流し、実質上これまで続いてきた植民地主義的で差別的な政治空間のニューモデルのようなものに換骨奪胎してしまおうとしているわけである。
これが、全ての「告発の声」に対する全面的な封じ込めの、さきがけでなくてなんだろう。


私は進歩のない人間なので、なにか出来事にあたってする発想は、あまり変わらないらしい。
ずっと以前にも、まったく別の事柄をめぐって、よく似たことを書いた気がする。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060121/p1


その冒頭には、次の言葉を引いていた。

テレイシアス  あなたは私の気性を責める、が、あなたのうちに住むあなた自身は見えぬらしい、そして非は私にあると言う。(ソポクレス『オイディプス王福田恆存訳)


だがそれにしてもこれは、共に真の意味で市民的な空間を、この私たち(国籍や民族の区別なく)が創設していこうとする呼びかけでなくて何だというのだ。
少なくともそのように聞き取る姿勢を持たないことこそが、私たちの差別性そのものだとすれば。
最終的に考えるべきだと思うのは、こういうことである。
多くの在日朝鮮人は、かつて(敗戦後)この日本で生きるという選択をした人たちである。
それは、「そうせざるをえなかった」ということと、「そのことを望んだ」ということとの区別以前のところで、私たち日本人が責任をもって受け取らなければならない事実なのである。
そう。私たちには、この選択を意義あるものにする責任があったのだし、今こそそれが問われている。
すでにとおの昔に、このボールは私たちに投げられているのである。それを受け止め(引き受け)られるかどうかに、無論「友愛」も、民主主義も、そして私たちの生も、その全てが賭けられているのだ。

*1:政治とは、本来そうしたものではないだろうか?