言葉と過程

http://biz-journal.jp/2013/09/post_2905.html

上の記事で松江哲明氏によってレビューされている『地方発ドキュメンタリー 〜いま、“在日”として生きる 大阪・朝鮮学校の1年〜』というNHKの番組だが、これは先に『関西熱視線』という関西ローカルの番組枠で放映された30分の内容を、45分に拡大して再編集し、全国放送したものだった。
そのローカル放送版に関しては、先に批判的な感想を、ここに書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20130729/p1



それと比べると、今回のものは、見違えるほどに丁寧な作りになっており、僕はたいへん感心したので、局宛に激励のメールを送ったほどである。
今回の番組のもっともよいところは、取材者たちが、映し出される対象である朝鮮学校の人たちと同じ高さに視線を置いて、相手を理解しようとしている姿勢が、よく示されていたことだ。ローカル版には、そういうものが感じられなかった。
これは、別の言い方をすると、取材者たち自身の姿勢や気持ちの動き(戸惑いなど)が、カメラに映し出されている、ということである。この意味で、対象と取材者とは、対等な位置に置かれる。少なくとも、そうあろうと努力している姿が伝わる。
そのことによって、日本社会やマスコミの公式的な眼差しによって捉えられたものではない、朝鮮学校に関わる人たちの、いわば生身の姿、その苦悩や力強く生きようとする様子が、前作よりもよほどはっきりと、映像に映し出されていた、と思うのである。


その例は、いくつかあげることが出来るが、冒頭の記事のなかで松枝氏が書いていたものをとりあげると、ひとりの少年が、朝鮮の核実験実施のニュースについて感想を聞かれる場面がある。
これは、あるいは僕の記憶違いかもしれないのだが、拡大版では紹介されている、この少年が修学旅行で広島の原爆ドームを見学して強い印象を受けたというエピソードが、たしかローカル版の方では挿入されていなかったのではないかと思うのである。
核実験のニュースのくだりと、それに対する感想を述べる少年の映像との間に、このエピソードが入っているかいないかでは、そこで伝えられるものの印象は大きく異なる。
ローカル版の流れで『核兵器はいらない』という言葉を聞けば、それは、ただ朝鮮の核実験という事柄だけを否定した印象の強く残る映像になる。
そこでは、この言葉を発するに至った少年の心の過程が描かれておらず、テレビの前の私たちに一方的に見られるだけの「対象」としか思われないので、その言葉が私たちの個に何かを問いかけてくる、といったことは生じない。
つまりその言葉は、「朝鮮の核」だけを非難の対象にしてアメリカや日本の核や軍事力には無批判ないし肯定的な日本社会のイデオロギーをなぞり、正当化する言葉のようにしか響かないのだ。
だが、拡大版におけるように、この言葉の背景に、原爆ドーム核兵器の悲惨な現実を見たという個人の体験があることが示されると、それが実は、核兵器への普遍的な否定の思いに強く根ざした「個」の言葉であることが見えてくる。
つまりそれは、普遍的であるが故に、番組を見ている日本の私たち自身の「自国の核や軍事力」への姿勢を問う言葉になるのだ。
見られる対象である少年の個と、それをテレビを通して見ている私たちの個とが、同じ地平に立つとは、そういうことである。
そのような「出会い」を可能にする、作りの丁寧さを、今回の拡大版の放送は持っていたと思うのだ。


上に書いたことについては、あるいは僕の記憶違いで、ローカル版でも拡大版と同様の構成になってたかもしれない。
ただ、番組全体を通して、言葉や態度の背景にある、個々の人の心の過程のようなものを丁寧に捉えようとしているところに、今回の放送の大きな長所が感じられたのだ。それは、見る側が個として、見ている対象の個に向き合おうとする姿勢、と言えるだろう。


最近、ネット上では特にそうだが、出てきた言葉の字面だけを捉えて、相手を理解し共感したつもりになったり、全否定して断罪するといったことが増えていると思う。
だが、結果として出てきているのは同じ言葉や表現であっても、大事なのは、そこに至る過程なのであって、各人におけるその「過程」を確認したり想像したりして踏まえていこうとする謙虚な姿勢を持つことが、今のような時代には、いっそう必要になってるのではないかと思う。