野宿者を公園から追い出すことについて

おととい、大阪長居公園の野宿者のテント村が一月中に強制撤去されそうだという情報をお伝えした。
大阪市内の公園における野宿の人のテントの撤去と、その排除ということに関しては、去年うつぼ公園大阪城公園で行政代執行がおこわなれた前後に、集中的に意見や感想を書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060224/p2


それ以後、基本的に自分のなかに大きな考えの変化はないと思うのだが、ここでは、こうしたことについての、今の考えをまとめておきたい。


野宿している人は公園を不法に占拠しているという意見があり、公園はみんなの税金で作られ管理されている公共のものだから、それはよくないことだとされる。
今回の場合、大阪市は「国際陸上」の開催を直接の理由として、この排除を行おうとしているんだろうが、他の公園でも行政による野宿の人たちのテントの撤去というのはしばしば行われているようで、この一連の動きの背景には、上のような意見が一般通念として市民の間に共有されているという認識があるのではないかと思う。
たしかに、厳密にいえば、公園の占拠は違法かもしれず、行政代執行は合法であろう。
しかし、法といい、税金といい、秩序や公共性といっても、それらは一体何のためにあるのか。いや、そもそも「社会」というものはなんのため、誰のために存在しているのか。「社会」といっても「国」といっても同じことだ。
それはそこに生きている人間の命を保障するためにあるのだ。


税金や社会保障費を払ったり、法や社会通念や公共心を尊んだりするのは、それらを徴収したり管理したり行使したりする大きな機構や社会体の安定と存続に奉仕するためではないし、また自分や自分たちの安定や安心を(これらの社会体を通して)確保するためだけでさえないはずだ。
それは、自分とか他人とかいう区別以前の、また「自分たち」(われわれ)とかそれ以外の者たちという区別以前の、自分とつながっている空間なり仕組みなりのなかに生きている者たち個々の「命」(存在)を維持することを第一の、根底的な目的とする行為だ。
社会制度や法や一般通念は、この目的を円滑に実現するための手段であるに過ぎない。
手段と目的の位置が転倒させられてはならないのだ。
野宿者があい変らず生み出され続け、その人たちの一部は都市部の公園に居住の場を求めざるをえず、大阪市におけるようにそれに代替するべき十分な案が行政によっても提供されていないと考えられるとき、この人たちのその場所での居住を当面保障することは、他のあらゆる社会的な約束事に優先されるべきものであると思う。


これが、「野宿者を公園から追い出す」という行為についての、ぼくの基本的な考えである。
行政がこのような方策をとりつづけ、世論の多くがそれに暗黙の支持を与えるということは、まったく間違ったこと、許されないことだと思う。
ここで「公園」という語を、「社会」とか、「地域」とか、場合によっては「家庭」というふうに置き換えてみればどうであろう。この排除を行っている主体は、行政であると同時に、それと別のレベルで、ぼくたち市民自身であるという思いが湧く。
「命」という言葉に、不用意に特別な神秘的な負荷をかけることにためらいはあるが、やはりそれはぼくら自身の、そして人の存在が個別的なものに分かれる以前のレベルで、人間が生きていることの一番根本的な相を見つめることを回避しようとする無意識の傾向の結果としてあるのではないかと思うのだ。
なぜ人は、また誰よりぼく自身は、人が(したがって自分が)生きている事実の、もっとも根本的な部分を見ないでおこうと努めるのか。
それは、その部分にかけられている抑圧の理不尽さと巨大さに、気づくことを怖れるからではないだろうか。
野宿の人の問題を考えるときに、浮かんでくるのは最終的にこのような問いである。


ちょうど今読んでいる立岩真也の『自由の平等』のなかに、次のような箇所があったので、最後に引いておこう。

競争と格差とを強化しないとこれからの社会を維持できないという論は基本的には間違いである。しかしそれに現実性があるのは、私たちの社会で行われているゲームの性格による。負けるとすべてを失うゲームに参加させられてしまっているのであれば、そこから降りることができない。生産・成長にどれだけかを、できるだけたくさんを取っておかなければならない、ということになっている。それで未来に利益を生み出さないだろうところ、例えば死んでいくだろう人々には金をかけない。(p27)


いまの社会で、「死んでいくだろう人々」にカウントされているのは、寒空の下で路上に追いやられる野宿や日雇いの人たちだけではない。
人間が生きていることから、その根本的な目的であるはずの命(存在)の価値を差し引いてしまうなら、すべての人間は潜在的にはたんに「死んでいくだろう人々」に過ぎないだろう。