汚染された民主主義

http://www.asahi.com/politics/update/0316/TKY201003160257.html


民主党に限らず、朝鮮学校を対象から外すことがはっきりしているこの法案に賛成した全ての党を非難したいが、さりとて賛成しなかった党もこの「除外」に反対しているわけではあるまい。
選挙になったら、悪い中でのましな方を選択せざるをえないのは、本当につらい。
だがそのことについてよく考えるためにも、いまは今回の対象外しがどのようにひどいのかを、あらためて確認しておく必要がある。



もちろん、もっとも重大なことは、そもそも朝鮮学校が無償化の対象から除外されることが「検討」されるようになった時点から、朝鮮学校に通う子どもたち、生徒たちがいわば公式に一般社会の外部の存在であるかのように扱われ、日本の社会に長く存在していて今新たな形で吹き荒れつつある差別の現実のなかに、あらためてさらされるようになったという事である。
この背景に、在日朝鮮人の全体、さらに在日外国人の全体に及ぶ差別、いわゆる排外主義の蔓延という現状があることはいうまでもない。
現政権は、今回の排除的な措置のみならず、こうした(最近、特に悪化している)差別の風潮を公式に助長する行為を行ったことについての責任を負わねばならないし、その責任は政府のみならず、それを許したわれわれ有権者の全てにある。
とりわけ私たちは、「朝鮮学校=特定の国家」とか、「朝鮮総連=反社会的な団体」といった、政府なり警察なりが流布させた視点を越えるような、社会的連帯の意識を、結局はこの社会のなかに広く行き渡らせることができなかった。そのことの痛みを、私には否認することが出来ない。同じ思いの人は、決して少なくないと信じる。
これは、他者に対する社会的な責任の意識と呼んでよいものだ。


だがそれと同時に、今回の法案の成立によって損なわれたものは、むしろわれわれ(この言葉を、「われわれ有権者」とか「われわれ国民」という意味と同時に、最大限の広がりにおいても用いよう)の社会の総体に関わっていることを、ここで確認しておかねばならない。
大事なことは、「社会全体で教育費を負担する(子どもを育てる)」という理念を掲げたこの法案が、はじめから除外する対象を設けたこと、しかも「政治的な」理由による除外対象を設けたことによって、条件付の政策となったこと、つまりは「理念」の具体化と呼ぶに値しない政策になってしまったことである。
言い換えれば、その時々の政治的な状況が、ここで掲げられているような教育と社会のあり方についての理念よりも上位にあることを、政治家や官僚たちは自ら示してしまった。


しかも、ここで「政治」と呼ばれているのは、何らかの目的の実現のための方策、戦略といえるような上等なものではないのだ。朝鮮学校を締め上げることが、拉致問題の解決につながるなどということはありえないし、誰も信じてさえいないだろう。また、朝鮮学校だけが授業料がかかるようにして、また社会的にも孤立させることで、結果として子どもたちを日本の教育のなかに取り込んでいこうというような長期的な狙いのようなものがあるとも思えない。
要するに行われたことは、政治家たちが、「排外主義」と「コストに関わる被害者意識」とへの傾斜を増している民心に迎合し、内閣支持率の低下の歯止めなり、選挙への好影響なりを求めた、それだけのことである。
ひと言でいえば、レイシズムポピュリズムに、民主主義と子どもたちを売ったのだ。


鳩山政権や民主党の悪口を書くつもりはなかったが、現実にこの悪法を作ったのはこの人たちであるから、いたしかたない。
それでも民心によって選ばれた政権ではあり、まがりなりにも(相当曲がっているが)日本の民主化の最初の担い手でありうる、いやそうなってもらわなくては困る政治勢力だと思っているから、こう書くのである。


「コストに関わる被害者意識」への傾斜と書いた。
今回の件が重大なのは、ひとつにはこのことに関わる重要な先例を作ったということだ。
不況による雇用不安、収入源、喧伝される財政難という状況の中で、人々の社会保障や公共事業に対する納税者・負担者という意識は過剰なまでに膨らんでいる。
今回、「無償化」という言葉が用いられたことが、この「負担者」であることの意識を強く刺激し、「その対象に対しては支払いたくない」という感情を増大させたのではないか。
派遣村の時、「なぜ野宿者に俺のカンパを使うのか」と主催側に食ってかかった市民のあったことが思い出される。
こういう社会状況では、「無条件の支給」という原則をはっきりさせておかないと、そのときの民心(世論の動向)次第で、いくらでも、さまざまな「条件」が、つまりは「除外対象」が生み出されることになろう。
朝鮮学校」は、そのひとつの例に過ぎないのだ。
ところが政府と国会は、はじめからここに「条件」を付けてしまった。民心や世論の方が、社会についてのビジョン、理念よりも上位だと定めてしまった。
しかも、その方法たるや、除外を行うという目的のために、後付で「省令」とやらを作り上げるという、恐ろしく恣意的なものである。
これが先例となって、あらゆる社会保障の場面で、さまざまな「除外」対象が次々生み出される可能性は、きわめて高いと思わざるをえない。


だから、この問題は、まず「無償化」を無条件に行うことを絶対の出発点とするしかなかったのである。
政府のいかなる政治的思惑や行為も(もし行いたいのなら)、このことを土台としてのみ行われるべきだった(それでも非難されるべきであるが)。
だが政府はその道を放棄し、自ら将来の社会についての構想(理念)のなかに、政治的排除の論理を刻印した、いやそれによって汚染したのである。
言い換えれば、社会のなかでの(あらゆる)差別を許容するという選択をしたのだ。
このことの意味は、おそらく、除去しようがないほど重い。


今回の法案によって、日本の民主主義(私は、この言葉をまだ信じたい)は、民主党自身の手によって汚されたというしかない。
だがそれは、結局そのことを許した、われわれ有権者全体の責任でもある。
この、差別に他ならない法案成立によって、朝鮮学校に関わる人たちが受けた打撃は計り知れないだろう。
だが、そのなかでももっとも重苦しいものは、日本の有権者たち自身の手によって汚され、格下げされたこの民主制の社会で、それでも多くの人が、今後も暮らさざるを得ないという事実であるかもしれない。
その重苦しさを、排除の対象となりうる、全ての人々が潜在的に負っている。
それを軽減できるかどうかは、もちろん私たち一人一人の決意と行動にかかっているのである。