サルトル『植民地の問題』

植民地の問題

植民地の問題


おそらく、サルトルの数多い著作の中でも、日本でもっとも広く読まれてきたもののひとつだと思うが、そのなかから、ここでは「ヴェトナム戦争犯罪国際法廷」いわゆる「ラッセル法廷」に関連する文章のひとつ、「ジェノサイド」の一節をとりあげる。



同法廷で議長を務めたサルトルは、この文章で、アメリカによるヴェトナムでの軍事行動が「ジェノサイド」と呼ばれるべきものであることを論証していく。
この論証の全体は鬼気迫るものだが、私がもっとも関心をひかれたのは、ヴェトナムに送り込まれて残虐行為を行うアメリカ兵たちについて述べられた箇所である。
「解放者」として歓迎されると思って赴いたヴェトナムの地で、民衆から嫌われていることを自覚したアメリカ兵たちは、次第に「新植民地主義の視点」に同化してヴェトナムの人々を憎悪の対象として、抹殺するべき敵とみなすようになると、サルトルは書いている。

あとは人種偏見のなすがままです。救うつもりであったこのヴェトナムの連中、だがじつはやつらを殺してやるために自分はここにいるのだ、と残忍な喜びとともに知るのです。(p224)


サルトルは、こうした兵士たちの「遠隔操縦された」心理のなかにこそ、ヴェトナム戦争の真実があるという。それは、相手が「ヴェトナム人であるがゆえに拷問し殺す」という、ジェノサイドの精神だ。

こうして、アメリカ政府がどんなに欺瞞的な、また慎重な言辞を弄そうと、ジェノサイドの精神は兵士たちの頭に根を下ろしてしまっているのです。そしてそれは、政府によって投げ込まれたジェノサイドの状況を生きる、彼らなりの生き方なのです。(p224〜225)


この一節を読んで思ったことがある。
私はずっと以前に、マイクロバスに揺られて工場に運ばれていく若いフリーターたちの映像を見て、まるで戦場に送られる兵士のようだと書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050209/p2


だが、いま思うのは、われわれは(フリーターに限らず、いまの日本の社会に生きる人の大半は)、すでに戦場に送られているのではないか、ということだ。
われわれが置かれている(投げ込まれている)日常は、人種偏見にもとづく暴力を、ひとつの「生き方」として選ぶように「遠隔操縦されている」ような、日常なのだ、おそらく。


サルトルのこの文章は、ヴェトナム戦争について書かれたものだが、同様のことは朝鮮戦争にも、またイラクなど中東での戦争にもあてはまるだろう*1
そして、そのいずれにおいても、日本という「同盟国」の協力がなければ、アメリカは「ジェノサイド」を行えなかっただろうことも、また確かである。近代史のなかで日本自身が行ってきた植民地や占領地へのジェノサイド*2はもとより、「戦後」のこの「同盟」関係のもとでの虐殺への加担を、われわれは忘れるわけにはいかないだろう、今日なおさら。
そしてこの「同盟」の実質は、おそらくサルトルがこの本のなかで「新植民地主義」と読んでいる、(ここでは米日間の)「支配−従属」の構造として成立し、(自国の)民衆と他国の人々への収奪・ジェノサイドを可能ならしめしているのだという、錯綜した現実への認識を、今日われわれは持たざるをえないのである。



さてサルトルは、ここでこの「戦争」というものが一般的なものではなく、蛮行を行うよう仕向けられたアメリカの若者たちにとっての、「この戦争」、特殊な権力関係においてあるものだということを、思い出させようとする。
捕虜を《尋問》した耐え難い体験を持つ元兵士の若者の「だれでも自分と同じ立場におかれたら、同じように行動しただろう」という証言に共感しながら、サルトルはこう述べる。

ただ、彼の過ちは、人間性を喪失させるような自分の罪を戦争一般の影響に帰したことです。これは間違いです。抽象的な、また状況づけられていない戦争ではなく、この戦争、彼の国、すなわち世界の最大強国が貧しい農業国にたいして遂行しているこの戦争のせいなのです。また、それをたたかっている兵士たちが、超工業国と後進国のあいだに可能な唯一の関係として、すなわち人種偏見を通して表現されるジェノサイドの関係として生きることを強いられているこの戦争のせいなのです。(p225)


しかしでは、サルトルはここで、戦争という一般的な悪を、というよりも別の形でなされる戦争、抵抗と呼ばれたり、対等な力関係においてなされる戦争を擁護しようとしているのだろうか。
おそらく、サルトルの真意はそこにはない。
彼が明るみに引き出して語ろうとしているのは、別のことである。
上記のような引用に先立つ箇所には、「ジェノサイド」を可能にする世論の形成について、こう書かれている。

二年前ならば激しい抗議をまきおこしたであろう、ハイフォンとハノイの人口密集地帯にたいする組織的な連続攻撃は今日、無気力というよりは神経硬直を思わせる全般的無関心のうちにおこなわれています。してやられたのです。世論は、じつは究極的なジェノサイドにむかっての人心操作であるものを、ゆっくりと絶えず増大する圧力とうけとっているのです。(p221)


「戦場」に投げ込まれた者たちによる蛮行、人種偏見にもとづく暴力それ自体は、いまわしいものであるとしても、それは結果でしかない。そうした暴力は、最悪のサディズム、どれほど想像を絶する悪のように見えても、ある状況に置かれたときにわれわれの誰もが行使する可能性のある、普遍的な人間の真実とさえ呼べるものである。
世論の「神経硬直を思わせる全般的無関心」こそが、じつは「ジェノサイド」と呼ばれる悪の本体である。この巨大な「無関心」が、あらゆる暴力と虐殺を構成するのだ。
だがこの悪は、われわれの人間としての脆弱な本質(操作可能性)にもとづいて存在しているとしても、その本質そのものではなく、「操作」を行う他者、つまり権力によってもたらされたものなのだ。
だから、この権力の存在に、そして権力による圧迫や管理や操作に日常的にさらされているわれわれ自身の存在の弱さ、操作可能であり、いつでも残虐な暴力の行使者へと変貌しうる(させられうる)私自身の弱さを直視し、いわばそういうわれわれ自身の(権力にさらされている)身体をいつくしむように奪還することが、反権力へのはじまりであり、「他者を殺さないこと」への唯一実効的なはじまりである。
おそらくサルトルは、そうしたことを言おうとしているのだと、私は思う。
この最悪の暴力に向けた「操作」が、われわれの社会のなかで日々完成されつつあるように見えるこの時に、私はそう思うのである。


惻隠の情こそが仁の端であり、そしてそこから「見えざる領域」にまで、仁は拡充されねばならぬと言ったのは、孟子である。

*1:人種偏見にもとづく空爆ということでは、日本への爆撃のことも考えざるをえないが。

*2:サルトルは特に、植民地における、言語や共同体、文化的制度、土地所有システムの根こそぎの破壊という「文化的ジェノサイド」の側面を重視する。