サルトルの「人格」再々考

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

きのうも書いたサルトルの「人格」という語についてだが、『存在と無』をさらに読み返していくと、次のような文が出てきた。


前にも書いた、「純粋な反省」と「不純な反省」の区別というところで、対自である意識は、その不安定さを克服しようとして自身を「反省」するのだが、「純粋な反省」においては自分自身を対象化することができず、不安定な状態にとどまる(したがって、未来(理想)と外部に対する「不断の投企」が要請される)のに対して、「不純な反省」では、その元来対象化できないはずの自分(意識)自身を対象のように見なすことで、幻影的な安定を得ようとする。
それによって形成されるのが、社会的な生(生活)でもあるわけだが、ともかくわれわれが生きていくなかで抱く「心理」というものは、対自としての意識が持つ「純粋な反省」という不安定きわまりないもの(ラカンなら「リアル」というだろうか?)の「幻影」のようなものだというわけだ。
このような「心理」のことを、サルトルは「プシュケー」という語で呼んでいるようで、それを抱く(即自的な)意識のあり方を「自我」と呼んでいるのである。それについて、こう書いてある。

自我は、JeおよびMoiという二重の文法的形式のもとに、超越的な心的統一としての限りにおけるわれわれの人格personneをあらわしている。(p442)


つまりここでは、「人格」は、意識の社会的ではあるが幻影的なあり方、対自の「不断の」投企に歯止めをかけてしまうものでもある「自我」というものの別名として使われていることになる。
きのう引いた部分では、「人格」は、「自我」に対比される「自己」に関わるものであり、人間の社会的(対外部的)な生存を可能にする基盤のように書かれていたはずである。それがここでは、逆になっているように思える。
とすると、サルトルは「人格」という語を、相反する二つの意味(つまり、「自己」に関わる意味と、「自我」に関わる意味との)で用いているのだろうか?
実際、上の引用文では『超越的な心的統一としての限りにおける』と言われているのだから、それ以外の意味においての「人格」というものもあるわけであり、そちらの方が「自己」に関わっている、ということは当然考えられよう。


だが、そもそもサルトルは、「自我」と「自己」を、そんなに対立的に考えているのだろうか?
「自我」としての生が幻影であり、対自を「即自」に墜させてしまうものであるといっても、そのような生(意識)のあり方を、つまり社会的な生存というものを、その幻影性のゆえにサルトルは否定しているわけではないのかも知れない。
むしろ、そのような条件のなかでしか(社会的現実のなかでしか)「私」は生きられない、己を投企できない、理想に向えない、実存できないという事実を、サルトルは深く認識していて、そうした生のあり方を対自に可能ならしめる枠組みとして、「人格」(自我)というものを考えている、ということではないだろうか?
だとすると、サルトルにおける「人格」とは、社会的な生という幻影の海を航海する(それによって自己の生を実現する)ために、対自である「私」が乗り込む、船のようなものだということになる。


いや、言えることは、サルトルにとっての「人格」とは、即自に還元されない、対自としての「私」に社会のなかでの現実的な生を経験させる仕組みである、ということだろう。
やはり先日触れた「歴史性」に関するサルトルの記述を引きながら、もう少しその点を見てみよう。

要するに、純粋な反省は、「それであるべきである」というしかたで純粋な反省がみずからそれであるところのたぐいなき個別性としてのかぎりにおいて、対自を、その全体分解的な全体のうちに、発見する。純粋な反省は、対自を、《反省されるもの》として、特に、「決して自己としてしか存在しない存在」、「将来において、過去において、世界のなかに、自分自身から距離をおいて、つねにこの《自己》である存在』、として発見する。したがって、反省は、それが一つの自己性のたぐいなき独自な存在のしかたとして、すなわち歴史性として、自己を開示するかぎりにおいて、時間性をとらえる。
 しかし、われわれが認識するところの心理的持続、われわれが日常、見慣れている心理的持続は、織りなされたもろもろの時間的な形式の継起としてのかぎりにおいて、歴史性に反して存在する。(p432〜433)


言えることは、ここでは「たぐいなき個別性」としての自己を反省(意識)が発見するのは、歴史性のさなかにおいてであるとされている、ということである。
意識が、対自である自己を、「たぐいなき独自な存在」として捉えるのは、というよりも(サルトル流に言うなら)、そのような生を私が生きるのは、歴史性においてである、と言われている。
歴史性と呼ばれる時間性だけが、たぐいなきものとしての「この生」(即時的でない、対象化されない生)を、他ならぬ私が現実に生きることを実現させる。
では、その「歴史性」については、どう書かれていたか。

私に関して反省するところの反省者は、何だかわからない純粋な無時間的なまなざしではない。むしろ、それは、私である。それは、持続するこの私であり、私の自己性の回路のなかに拘束され、世界のなかで危険にさらされ、私の歴史性をもったこの私である。ただし、私があるところの対自は、かかる歴史性、かかる世界内存在、かかる自己性の回路を、反省的な裏表の様相において、生きるのである。(p420)


歴史性とは、ともかく世界内を、対自である「この私」が生きるということであり、言い換えれば歴史性に反するような日常の時間性のなかでは、「この私」の生の体験は封じられている、ということだろう。
世界(社会)の現実に飲み込まれて消えてしまう「危険」を犯しながらも、世界のなかで、「人格」によって、「自己性」によって、「この私」の生を切り開いていく。「永久革命論」さながらに、不断に開き続けていく。
それは、私がこの世界のなかに生きているという事実性との、終わりのない格闘を意味しているだろう。その格闘を放棄しないところにだけ、対自である「私」の生の純粋さは維持される、とサルトルは考えたのではないか。
恐らく、事実性(との対決)を放棄しないことだけが、「自由」を可能にする。


それにしても、サルトルにおいて、「人格」(自己)によって開かれるとされる「歴史性」に対置されるものが、日常の心理や時間性であるのなら、ここでの「人格」や「歴史性」は、やはり(日常的な人格の否定であるという意味で)「非人格的」という言葉を、ぼくに想起させる。