サルトルの「自己欺瞞」論

存在と無』(ちくま学芸文庫)のなかの第一部第二章では、「自己欺瞞」という心理現象の分析をとおして、人間の意識のあり方に迫る試みが行われている。
この部分がたいへん面白いと思ったので、ここにメモしておきたい。


まず、これはとても重要なことだが、サルトルはここで、嘘や虚構と、自己欺瞞とを明確に分けている。

嘘をつく人の内心の気持ちは、肯定的である。つまりその気持ちは、肯定的判断の対象ともなりうる。嘘をつく人は、だます意図をもっているのであり、この意図を自分に隠そうとはしないし、意識の半透明性をおおい隠そうともしない。(p173)

虚偽は一つの超越的な行為である(p174)


この「意識の半透明性」というのがよく分からないのだが、まあいいだろう(「無」が関係してるのだろう。)。
ともかくサルトルがここで問題にするのは自己欺瞞であって、嘘(虚偽)や虚構ではない。自己欺瞞は、「超越的」ではない。私が私を欺く。
それはどういうことか。

いいかえれば、私は嘘をつく者としてのかぎりにおいては真実を知っているのでなければならないが、この真実は、私がだまされる者である限りにおいて、私におおい隠されている。(p176)


これはたしかに不透明な(すっきりしない)意識あり方に思えるが、こうした行為が可能であるところに人間の意識が一元的なもの、同一的なものではありえない事情が示されているということだろう
人間の意識は、自己欺瞞という行為が可能であるようなものとして存在している。この条件のうえに、人間の社会生活も成り立っている。
これは前回書いたことに関係するだろう。自己欺瞞によって日常のさまざまな事柄を「自明」と思い込まなければ、われわれは一切の社会生活を送れなくなる。

それは大多数の人々にとって、人生の当たり前の姿であるともいえる。われわれは自己欺瞞のうちにあって生きることもできる。(p177)


われわれが基本的には自己欺瞞を免れ得ないのは、われわれがわれわれ自身とぴったり重なることのない存在だからだ。
そのことを、サルトルは、次のように言っている。

私は決してかかる主体ではなく、客体が主体から分離されるように、私はかかる主体から分離されている。しかも何ものでもないものによって分離されている。けれども、この何ものでもないものが、私をかかる主体からひきはなす。(p201)


ここで主体と言われているのは、私の社会的な存在、他者のなかに置かれた、他者にまなざされた私の存在のことではないかと思う。
私は、何ものでもないもの(無)によって、その主体からひきはなされている。
言い換えれば、私とその主体(私の社会的な存在)との間には、不安に満ちた淵のようなものがある。サルトルが「自由」と呼ぶのは、この淵のこと、この淵を直視する態度のことだろう。
自己欺瞞」という行為は、このような人間の非同一的な意識の構造に由来するものでありながらも、それを覆い隠してしまうひとつのやり方であるといえよう。


さて、サルトルは、こうした「自己欺瞞」と、「誠実」というものとを同じ側に置いて批判する。
どちらも、自己欺瞞が可能であるような人間の意識のあり方というもの、言い換えれば一元的(同一的)でありえない、ゆえに「誠実」であれるはずがない人間の生の実態を隠蔽する態度だからである。


ここでサルトルは、非常に興味深い例を引いている。
深い罪悪感をもち、自分の同性愛的な傾向と自分の犯した過去の過失を認めながらも、自分自身を《男色漢》だと考えることを拒み続ける同性愛者の「自己欺瞞」と、その自己欺瞞を非難して、自分がそのような存在であることを率直に認めるようにこの人に迫る、一見寛大で「誠実」な友人の態度とを比較するのである。
そして、後者の態度こそが、はるかに自己欺瞞的であるというのである。

さてここでわれわれは問おう。誰が自己欺瞞的であるか?同性愛者の方か、それとも誠実の代表者か?同性愛者は自分の非を認めているが、しかし自分の過失が彼にとって一つの運命を構成するというような、やりきれない見方に対しては、全力を尽くしてたたかう。(p211)


これは、同時期に書かれた有名な論考『ユダヤ人』にもつながる観点だろう。
じっさい、『存在と無』第一部をとおして、サルトルがもっとも非難している主敵は、悪しき本質主義であるといえる。
ここで強調されているのは、あたかも事物のように、自分の存在に(差別的な)レッテルが貼られることを拒もうとする者の姿勢と、「誠実」をその相手に強要することで相手をレッテルのもとに事物化・無害化し、そのことによって自分の不安(フォビア)から逃れようとする良識者の卑劣さとの対比だ。
この良識者、「誠実」を主張する友人は、相手が同性愛者という「本質」を有する人間であると当人に認めさせることで、自分にも同様の傾向や過失を行う「自由」があるという不安から逃避することを目論んでいるのである。
このことを指摘するサルトルの筆は見事だ。

事実、誰しも知っているように、《へえ、あの男は男色漢だって》というような文句のなかには、他者に対する侮蔑的なものと、私にとっての気やすめ的なものが、ふくまれている。この文句は、われわれを不安ならしめる他者の自由を、線を引いて抹殺し、あとはただ他者のすべての行為を、その人の本質から必然的に生じてくる帰結として構成することをめざしている。それにしても、非難者がその犠牲者に要求するのは、このことである。すなわち、犠牲者がみずから自己を事物として構成すること。(後略)(p213〜214)


さてこの章では、最終的にサルトルは、自己欺瞞とは信仰、信念に他ならず、『自己欺瞞の本質的な問題は信念の問題である』と述べる。
繰り返すが、それは、虚偽とは異なる。
自己欺瞞という態度がもたらすのは、論理と明証による説得や、批判的思考による真理の追求といったものの無力化である。
この部分の記述は、今やひときわ重要なものだろう。

その結果、特異な型の明証があらわれてくる。説得的でない明証がそれである。自己欺瞞は、明証をとらえるが、この明証によって充満されないように、また、説得されもせず、まっ正直になることもないように、はじめからあきらめている。(p222)

われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(p223)


ぼくは、ここで描かれている「自己欺瞞」とは、オーウェルが『一九八四年』で描いた「二重思考」なるものと別のものではないように思う。
ハヤカワ文庫から出たその新訳版の、巻末に付された解説のなかでトマス・ピンチョンは、この小説がスターリン体制のような全体主義的な体制を批判したものではないことに注意をうながし、むしろそれはイギリス労働党チャーチルの戦時内閣に代表されるような「イングランドの公的左派」の批判を主眼とした作品であると述べている。
存在と無』においても、「自己欺瞞」という概念によって直接に批判の対象と仮想されているのは、おそらくとりわけ、独ソ不可侵条約締結がもたらした混乱のなかでフランス共産党への苛烈な弾圧の中心を担った人民戦線内閣内部の左派だっただろう*1
サルトル本質主義への批判が反ユダヤ主義や同性愛者差別などの悪しき保守主義を主敵としていたとすれば、彼の「自己欺瞞」についての分析は、これら「公的(体制内的)左派」への非難を眼目としていたはずである。


存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)


一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

*1:こうした事情は、アレグザンダー・ワース著『フランス現代史 1』(みすず書房)に詳しい。