『一揆』(おまけ付き)

一揆 (岩波新書)

一揆 (岩波新書)


本書によると、中世後期の南北朝時代から戦国時代にかけては、「一揆の時代」と呼ばれていた。
これは、それまでの社会(中世前期)を支配していた武士団の「族縁的集団」と呼ばれるものが解体する一方、近代に続く受け皿となるべき「家」や「村」といった単位が登場してきたものの、それらがまだ制度の装置として組み込まれていないという転換期の混沌のなかで、その「家」や「村」を何らかの目的(要求の実現など)に向って結集していく動きとして、「一揆」なるものが機能していた、ということのようだ(本書、p60、61)。


著者は、その歴史を振り返りながら、とくに「一揆」の行動や、その意思決定のあり方である「一味同心」という論理の根本に、それに参加する人々が日常生活の縁(血縁など)や好悪感情、それに現実世界の秩序・権力関係などから自ら断絶(離脱)し、神の意志を担って集団を組み行動するところに、その力と道理の根拠を求める、という心理・考え方があったことに注目する。
一揆に参加する人々は、通常の関係性や心理を離脱して一揆という非日常的な場に参入することにより、自分たちをいわば神の意志を担う超人格的な存在、神の「力」と「正義」の代行者のように意識して、行動したのである。


こうした心性は、江戸時代・幕末の農民による一揆にも受け継がれていくものとされるが、これがとりわけ明瞭であるのは、高野山比叡山興福寺など中世の大寺社が行った「列参強訴」と呼ばれるものだという。
そこでは数千人の参加者(僧侶)たちは、(後の農民による一揆にも受け継がれたように)覆面などの「異形」や特異な発声の作法によって、日常の姿から「変身」して参加した集会で意思決定を行った後、神木や神輿を担いで洛中に入り禁裏へと向った。
その道中では鉦や太鼓が打ち鳴らされ、数千の衆徒の怒声が飛び交い、道筋での喧嘩や乱暴狼藉が定まった振る舞いとされていたという。
そこでは通常の法の適用、つまり「訴訟」などによる問題の解決が徹底して拒まれ、要求実現のためのこうした強硬な実力行使を行うこと自体に重きが置かれていた。
その根底には、当時の社会における宗教的な権威の力や社寺の物理的な実力ばかりでなく、上にみたような、神(神仏)の力と正義の代行者として行動し、神の道理をこの世に実現しようという古来からの考え方(一揆の論理)の流れが見られる、というわけである。
当時の大社寺による強訴は、よく「理不尽」というふうに言われるけれども、それはたんに実力にまかせた無理強いというだけでなく、この世の論理(法や秩序)を無視し破壊することによって、あるべき正義をこの世に実現(回復)しようとする論理や情念を核心にもっていたということだ。


さらに著者は、こうした一揆の論理と呼べるものが、遠く江戸時代の「徳政」を求めた農民の一揆や、幕末から明治初年にかけての「世直し」を希求する一揆や「打こわし」にも継承されたと見る。
そこに著者は、「土地」は元来(賃貸や売却の契約に関わらず)持ち主である農民に一体的に帰属するという伝統的な観念(それが「徳政」要求の根拠となった)と共に、「破壊」へのポジティブな意味づけ、「破壊による再生の意識」(p173)を見出している。

この破壊感情は、日常的な彼らの生活環境のなかから生まれたもので、さきにみたように、一揆を結ぶことにより、みずからの行動を神の意志の代行行為として、天にかわって懲罰するという強い正義感情のもとで打こわしをおこなったのである。(p188)

しかし、たんなる打こわし一揆と異なって、世直し一揆の「世直し」観念にもとづく打こわしは、このような目的だけで破壊をおこなったのではなかった。この世直しの破壊は、さきの徳政一揆と同じく、時代の転換の認識のもと、その破壊が世の再生につながるという民衆の意識と結びついていたのである。(同上)


いずれにせよここには、破壊と再生(救済)とが不可分のものとして結びついた、現世の関係や秩序を否定する行動のエネルギーが見られるわけだが、著者はその根底に、日常の人格や関係性、心理から離脱して、集団に参加することで、神の意志の代行者へと人々が「変身」して行動するという仕組みを見出しているのである。
あたかも、神という「他者」にとりつかれ、その意志を担うことによって、人々は権力に規定されるだけでない、むしろ権力のあり方を新たに作り出すものとしての自分たちの権能を、取り戻しているかのようである。
その一瞬、現世の困窮と混乱のさなかで人々は、苦しんだり絶望するばかりではなく、権力と社会を形成する主体としての自分の生を、同じ境遇に置かれた人々との共同をとおして獲得していたようにも思える。




本書は82年に出た本の復刊で、当時までに蓄積されていた一揆に関する研究の成果を、著者の関心を軸に分かりやすく整理して書かれている。すでに名著として知られてきた本なのであろう。
こうした内容は、最近話題になった田中優子著『カムイ伝講義』にも書かれているところだが、この本ではより詳しくその脈絡を知ることが出来る。
また、「破壊」へのポジティブな意味づけを行っている点などは、本書の大きな特徴だろうが、当時よく読まれていたベンヤミンの著作を思い出させる。
それに限らず、書かれた当時の雰囲気のようなものを感じる。
たとえば、「一揆」「一味同心」の源流を、よく言われるような仏教寺院の意思決定システムに見出すのでなく、土俗的なルーツをもつものと考えていることなども、民俗学への関心や戦後の民族史観的なものの名残を感じさせる。
ここなどは、ぼくにすれば、仏教という外来のシステムにおけるものだろうが、土俗的なものだろうが、たいした問題ではなく、要するに他者(神仏)にとりつかれ、その意志を担うかのように日常の人格から離脱して、権力に対抗する集団的な「非人格」が形成されるという普遍的な構造があった、と考えた方が面白いように思う。



最後まで読んでくれた方のために、特典映像。
一揆、いかせていただきます。