『私の少女』

先日、シネリーブル梅田でこの韓国映画を見た。
http://www.watashinosyoujyo.com/
監督は、これが長編第一作とのことで、作品としてはまだ成長の余地がある印象だが、とても多くのことを考えさせるすぐれた映画だと思った。
以下、ネタバレになるが、思ったことを書き留めておきたい。


今回も、映画のさわりだけを書いておこう。
主人公のヨンナムは、エリートの女性警官だが、プライベートで問題を起こし、過疎化のすすんだ漁村の署長として配属される。一時的な左遷である。
これはネタバレになるが、実はヨンナムはレズビアンで、そのことが問題化して、彼女は左遷されたのだ。
彼女は、パトロール中に、級友から酷いいじめを受けている少女ドヒと出会うが、やがてドヒが血のつながっていない父や祖母から凄惨な虐待を受けている事実を知る。
そのうちに、その祖母が崖から転落して事故死するという事件も起きる。
ヨンナムは、父親の暴力からドヒを守るため、彼女を自室に同居させるようになる。その優しさに接して、ドヒは少しずつ心を開いて行くが、それを恨んでいた父親は、やがて偶然からヨンナムがレズビアンだということを知り、逆にドヒへの性的虐待の加害者としてヨンナムを告発、ヨンナムは逮捕されて取り調べを受けることになる。


さて、ここからが感想だが、例によって映画の本筋から外れた、蛇足めいたものになるのをお許しいただきたい。
警察の取り調べでは、ヨンナムが、ドヒを自分の部屋にかくまって一緒に暮らしていた時、その日常的な接触や感情のなかに、性的な意図やニュアンスが含まれていたのではないかということが、問題にされる。
特に男性の上司は、偏見を込めた言葉と眼差しで、そのことを彼女にしつこく問いただす。そこでは、性暴力と呼べるような具体的な行為や意図があったかどうかではなく、日常の行為や感情に性的なものが含まれていたかが、問いただされるのである。
だが、日常的な接触や感情の中に、性愛の要素が少しでも含まれていたかまったく含まれていなかったというようなことは、元来、誰にも明確に出来ないような事柄であろう。
ヨンナムとドヒとの間には、互いの孤独や傷による、共感的な関係があるのであり、それがまったく非性的なものか、わずかにでも性的な要素を含むのかというようなことは、本人たちにも決定できないはずなのだ。
警察の取り調べは、その明確に出来ないはずの領域に踏み込んで来て、ヨンナムを犯罪者だと断定しようとするのだが、むしろ、そのような司法や権力の言葉によっては明確にできないような領域のことを、われわれは、もっとも厳密な意味で「性的な領域」と呼ぶのではないだろうか。
そうすると、偏見に満ちた男性刑事の視線と態度が表わしているものは、権力の論理を逃れようとするような、この「性的な領域」に対する、権力を行使する側の人間の嫌悪と攻撃、そして支配の欲望だということが分かってくる。
もう少し整理して言うと、性愛という秩序化しがたいものを、どうにか秩序化しようとして、社会はさまざまな制度を作り出す。家父長制とか、異性愛中心主義とか、男性中心主義とか、性の商品化とか、そういうものである。
そうした制度に対して逸脱的と見なされるような性愛のあり方に対する嫌悪と攻撃は、警察・司法権力に大きく体現される、支配秩序の側の欲望の本質に属しているといえるだろう。もちろんそれは、女性よりは男性、同性愛者よりは異性愛者によって、より深く内面化されている欲望だ。
そう考えてくると、警察の取り調べに含まれているものと同種の欲望が、ドヒを虐待する父親にも内在しているのではないかと思えてくる。
ドヒの母は、彼女が幼い時に、この父とドヒを棄てて家を出ている。父のドヒに対する暴力は、こうした行動(彼には自分の支配に対する裏切りにしか思えなかったであろう)をとった妻(ドヒの母)に対する憎悪を投射したものでもあるのだ。
つまり、そこにはミソジニー女性嫌悪)の要素が働いていると思える。
このことはおそらく、この父が、その母親(ドヒの祖母)と「母一人、息子一人」で育ってきたという設定と無縁ではない。この祖母もまた、ドヒに対する虐待に加担したり、黙認したりするのだが、そこには家を出るという行動をしたドヒの母への嫌悪や憎しみも、やはり込められていると思えるのである。
ここにあるのもやはり、警察と同じ、秩序から逸脱する生と欲望のあり方に対する攻撃の衝動、そして、明確化(言語化)を拒むような曖昧で不安定な領域を消し去ってしまいたいという、各人に内面化された支配権力の意志ではないだろうか?
こう見ると、警察という男性主義的で国家的な組織におけるヨンナムの抑圧された位置と、家庭内で虐待を受けるドヒの境遇とは、社会を広く覆う同種の権力の犠牲者として、やはり重なり合うものだということが、あらためて分かると思う。