刑事の暴力

殺人の追憶』『グエムル 漢江の怪物』のポン・ジュノ監督の新作、『母なる証明』を見た。
この監督は、これがまだ三作目のはずだが、すでに巨匠の風格さえ漂う見事な作品に仕上がっていたと思う。ぼくが行ったときはあんまりお客さんが入ってなかったけど、特に映画好きの人には、見ることをすすめたい作品である。
ここでは、作品評ではなく、思ったことをひとつだけ書いておきたい。


この映画では、ウォンビンの演じる、知的障害のある若者が殺人の疑いをかけられ、田舎町の地元の警察に暴力的な脅しを受けて取り調べられる場面が出てくる。
この設定は、同監督のデビュー作で傑作と言っていい『殺人の追憶』と同じである。『殺人の追憶』では、ソン・ガンホ演じる主人公を含む刑事たちに、やはり障害のある登場人物が、拷問を受け、犯人であることをでっち上げられそうになる。
この『母なる証明』ではそこまでは言っていないけれども、若者と顔見知りのはずの刑事たちによって、かなり手荒い取調べを受けるらしいことの示唆される場面があるのである。


殺人の追憶』でもそうだったが、この刑事たちは、別に「悪徳警官」や権力のとりつかれた非人間的な存在のように描かれているわけではない。
なかでもユン・ジェムン(好演)の演じる中年の刑事は、キム・へジャが演じる若者の母親とも、実の親子のような親交のあることが示されているし、また映画の初めの方で、ウォンビンと町の悪ガキであるその友人が金持ち達とトラブルを起こすと、彼らのためにうまく便宜を図ってやろうとするなど、「正義の味方」とは言えないが、憎めない「人間的」な存在として描かれている。
その「普通の人間」である刑事たちが、ひどい取調べを行うのである。


これは、日本の映画やテレビでは、ほとんど見ることが出来ないものではないかと思う。
たしかに、警察官の悪が描かれる作品もないわけではないが、それは上層部の人間だったり、一部の例外的な人間に限られていて、被疑者を含む一般の市民と交流を持つ、人間的な存在として描かれた刑事が、不当な暴力的な捜査・取調べを行う場面には出くわさない。


この点でやや例外的な印象を受けるのは、テレビ時代劇の『鬼平犯科帳』シリーズである。
この優れた作品では、鬼平やその部下の同心たちは、普段は真面目だがまったく普通の人間として描かれているのに、時として(明らかにクロだと思われる場合のみだが)被疑者に猛烈な拷問を加えるシーンが描かれる。
もちろん、時代劇だから、当時の様子をリアルに描いているということだろうが、見ていると、普段のありふれた様子と、その暴力を振るう凶暴な姿とのギャップに、戸惑ってしまうときがある。
これは、現代劇を含む他の日本のドラマや映画では、このようなギャップがありえないからだろう。


要するに、暴力を振るったり、悪いことをするのは「悪い警官」だけで、「人間」として描かれた警官は「普通の人間」なのだから、そこから逸脱するようなひどいことはしない。
もっと正確に言えば、「善良な八百屋」や「善良な郵便局員」と同じように、「善良な警官」というものが居て、また「悪い警官」も居るにはいるが、「善良」か「悪い」かという一般的な二分法は警官についてもそのまま当てはまり一度「善良な」「普通の人間」として描かれた警官は、暴力や不当捜査のようなことをするはずがない、とされているかのようである。
そこでは、「警察」というものが持っている特性、つまり権力を担い、日常生活のなかで合法的な暴力の権利を独占しているという事実がまったく覆い隠され、暴力行為の有無が、警官個人の性格の善悪というものだけに結び付けられてしまっている。
暴力を振るうのは「悪い警官」というパッケージに入った例外的な(非人間的な)存在だけだ、というわけである。


それが、ポン・ジュノ監督の作品においては、そうではない。
そしてこれは、多かれ少なかれ、韓国の他の監督の作品にも共通して言えることではないかと思う。
ここでは、「善良な(憎めない)」「普通の人間」である警官も、警察的な暴力を残忍に行使するのだ。
それは、日常生活において警察機構が有している権力が、個々人が善良か否かによってその暴力の行使が左右されるような甘いものではないという、現実的な認識を、韓国の人々は歴史のなかで共有してきたからだと思う。
刑事が暴力を振るうのは、彼が「悪い人間(悪い警官)」だからではなく、彼が警官だからである*1
(警察)権力が、「普通の人間」に暴力を振るわせるのだ。
だからこそ、そこに法や市民の監視による特別な歯止めがなければ、警察の暴力や不正を防ぐことは出来ない。そう考えられているのだろう。


そうすると、ある警官が、血肉を備えた生きた人間であるということと、この人が法や監視の歯止めがなければいつでも暴力的な存在になりうるということとは、決して相反する二つの認識ではない。
むしろ、それらは互いが互いの条件となるものだろう。
暴力を振るう警官は、彼が悪いのではなく、警察という暴力を可視化せずそこに歯止めをかけることをしてこなかった社会の犠牲者である。
この認識と思いがあるからこそ、人々は警察の暴力を警戒し憎み、そして愛すべき存在であるあの刑事たちのドラマを好むのだ。


ぼくは、こうしたところに、日本と韓国の、権力や社会についての、とりわけ人間という弱い存在についての、まなざしの質的な違いのようなものを感じるのである。

*1:こうしたことは、戦争ではいっそう露骨にあらわれるだろうが、警察については、日常の生活のなかでそのことが見られるのである。