あの言葉の意味

先にTBのあった、ぼくへの批判記事のなかで、lmnopqrstuさんは、このように書いた。
http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090402/1238677714

結論から言うと私は、氏の人間主義に嘘はないと考えるが、一般的過ぎて無意味だと考えている。それは克服すべき植民地主義の問題(としての在日朝鮮人問題)に対してほとんど何も言っていないのに等しいだけでなく、一般的次元に固執し過ぎることによってかえって悪い影響を与えてさえいると判断する。そもそも私は最初の批判*2において既に氏の具体性を欠いた一般的原則論を批判したが、それは実は、喫緊の具体的問題を論じている金光翔氏への氏の批判が、一般的過ぎて無意味であるだけでなくマイナスに作用すると私が判断したためであった。

引用文の太字に留意すればわかるように、自覚、自制等のキーワードが立論の要所をなしている。左翼というよりも警備員や警察の言葉のように(私には)きこえる。


また、脚注のなかで、次のようにも述べている。

私は氏の言説のパフォーマティブな効果、とりわけ在日朝鮮人の読者に及ぼす暴力的な効果に注目している。

実際、先の記事のなかでぼくは、自分なりに考えを進めた末に、「被害者」とその人権の保護のためには、在日朝鮮人組織内部への警察による介入がやむをえない場合もあるはずだ、少なくともその選択肢をはじめから排除すべきでないという趣旨のことを書いた。
するとこれは、lmnopqrstuさんが指摘するとおり、ぼくの思考が、「警察の言葉」に通じるような類の暴力性を有していることを、やはり明かしているのだろうと思う。
それは「植民地主義」といっても当てはまるし、現在の日本の国家権力の発想に近似したものであり、したがって現在の日本の国家権力のあり方が植民地主義の延長にあるものであることを明かしてもいると思うが、簡略にその特質を述べれば、内部への抑圧と関連した、外部(他者)の監視と排除の思想、とでも呼べるものだと思う。
この権力と暴力の形が、ぼく自身の思考に内在しているという氏の分析・指摘は、以前にも認めたことだが、たしかに当たっていると思う。
つまりそれは、個人的に述べれば、自己抑圧と結びついた他者への保護・管理と抑圧・排除の思想、とでも呼べそうなものである。
これはたしかに、こうした一連の批判を受けなければ、自分では気づくことの出来なかったものである。


ぼくは国家権力による個人の保護ということも、現実においては必要な場合があると思うけれども、被害を受けた当人がそれを求めるということと、ぼくがそのような場合を仮想して、あたかも在日朝鮮人個人を「公権力によって保護すべき対象」のように語るのとでは、まったく意味が違うだろう。



ぼくは、lmnopqrstuさんの論の全てに賛同することは出来ないが、氏のぼくに対する批判には、たしかに的確なものがある。
ぼくのなかには、自己抑圧と結びついて、それを他者への攻撃や抑圧・排除に転化しようとするような暴力性と同時に、国家による「庇護」、パターナリズムの発想と結びついた抑圧的な権力の発想が、確かに根付いているらしい。
おそらくそれが、金光翔氏の文章の中にあった、「在日朝鮮人の自己決定権の否定」を前提とする議論、という言葉の意味するところであろう。
ぼくはここまで来てようやく、ずっと分からずにいたあの言葉の含意を、理解し得たように思う。


ぼくがこのブログをはじめた当初、「現代の若者の暴力性を肯定的に考えられないか、ということをテーマにしたい」云々と書いたことがあるが、それは今思うと、実は自分自身の暴力性について考えようとしてたのだと思う。
lmnopqrstuさんが洞察されたように、ぼくの思考には自他への強い暴力性が含まれており、ぼくの関心はブログをはじめた当初から、その自分の暴力性に向けられていたのである。


しかしこの暴力性が、上に書いたような国家権力のあり方と結びついたものだとすると、もはやこれを「肯定的に」捉えるというわけにはいかないだろう。


ぼくは今後も、これまで書いてきたような主張(警察の介入の必要性など)を場合によっては繰り返すかも知れない。何らかの暴力の生じる危険があっても、それが必要な場合がありうると考えるからである。
ただ、そのように考えるぼくの思考には、日本の国家権力や植民地主義につながる権力性や暴力性が内在しているという、上記のような批判は、正しいものであると思うということを、今とりあえず、ここに書いておきたい。