体罰はなぜ悪か、について考える

体罰について考える際、まず「体罰は是か非か」というところから考え始めることが、適切であり公正な態度であるという風に思われている。
だが現在の社会が概ね、実力・権力や権威を有する者が、そうでないものに対して振るう暴力を容認してしまう傾向にあるということ、またそうした価値観を自分自身内面化してしまっている度合いが大きいと思えることを考慮すると、僕はこの問題を、まず「体罰はなぜ悪であるのか」というところから考え始めることが、適切な態度だと思う。
そこから始めて、どうしてもその理由が見出せないようなとき、初めて「是か非か」というところに移行して考え直してみる。そういう手続きの方が妥当だと思うのだ。


学校における体罰に関してしばしば聞かれるのは、教師が「ついかっとなって手を上げてしまった」というようなことである。この場合、普段から教師自身にあまりに大きなストレスがかかっていたことや、生徒たちの態度があまりに酷いものだったこと、などが理由として述べられることになる。
それを聞くと、「そういう事情であれば、自分でもそうするかもしれないな」と思い、その体罰を容認するような意見を心に抱きがちである。
だがよく考えてみるべきなのは、上のような「理由」がどれほど切迫したものだったとしても、自分よりも体力的に強かったり、社会的な立場が上であったり、権威なり後ろ盾を有しているような相手に対して、自分は果たして暴力や暴言を振るうかということだ。
僕も、かっとなって相手に酷い言葉を投げつけることはしばしばあるし、過去には「ストレスのあまり」陰惨な暴力を振るった経験もある。
だがその場合、相手はたいてい、自分よりも弱かったり、地位や権威が低いと、僕が思っている対象である。またもしくは、攻撃しても、ひどい反撃を受ける心配のない相手(場合)だ。
つまり、「ついかっとなって」振るうような暴力というのは、たんに「やむをえない」ものではなくて、実際には弱者を選択して行使されている暴力である、と思えるのである。一言で言えば、相手をなめているから、振るえるのだ。
そういう種類の暴力を、「自分もするかも知れないものだから、やむをえない」という風に容易く思ってしまってるところが、自分にもある。
これは、僕自身が、そういう「強者による暴力の論理」を、いかに内面化してるか、という証だろう。


教師(や親)による体罰は、それがたんに暴力だから酷いということ以上に、権威や権力を有する「強者」による暴力(実力行使)だから酷いのである。それが、この悪の本質だ。
そういうものを許すということは、つまり自分も「強者による暴力」を支持し行使する側に立つ、ということである。


「強者による暴力」の論理の内面化は、おそらく、自分自身がこれまで被ってきた暴力の積み重ねから生じてくるものだろう。その体験の生々しさから逃れるために、人は、「これはありふれた、仕方のないことであり、許されてしかるべき暴力だ」というように自分に思い込ませることを覚えていく。そうやって、「強者による暴力」が黙認され堂々と行使されるような社会を支えることに、動員されていくのである。
そうした体験はむろん、たんに個人史的なことばかりでなく、今の社会においては、日常に充満しているものである。
橋下市長による、問題が起きた高校への不当な暴力的介入などは、その最も露骨な表れだといえるが、日常における競争や、差別的で生命を蔑ろにするような社会のあり方は、この論理を人々に押し付け、否応なく「強者の論理」に同一化することを強いている。同一化しなければ、毎日を、あまりにも生々しい被暴力の記憶と実感のなかで生きることになるからだが、そうすることで自分が日々直接・間接に行使している弱者への暴力にも、どんどん鈍感になっていくのである。
僕は、被曝の問題も、差別や排除の問題も、そういうこととつながっているのだと思う。だからこうした諸問題が、橋下が権力を握っている今の大阪で集中的に露呈しているということも、必然的だという気がする。


体罰という「強者の暴力」について、容認的な意見を持つ人は、自分が本当は、何を擁護し守ろうとしているのか、よく自問するべきだと思う。
それは、自分の痛みの体験に気づきたくないあなた自身か、強者の論理に同一化することで保持している自分の地位や生活か、それとも本当にその教師の人間性のようなものなのか、または子どもの将来や命なのか?
自分が最も大事であり、守りたいと思っているものと、体罰容認のその意見や気持ちとは、本当に合致するものなのか、どうか。