『闇の左手』




この小説に出てくるゲセン人は、普段は両性具有の状態だが月に何日かケメルという時期(発情期)を迎えて男性もしくは女性に変容する、ということになっている。
(ケメルの時期以外は)性差が存在しない社会であるということは、次のようなことをも生み出す。
男性と女性に関して言えば、

つまり重荷も特権も、すべての人がほぼ同等に分かち与えられる。すべての人が同等の危険、同等の選択の機会をもっている。換言すれば、ここの人間はすべて、よその世界の自由な男子ほど自由ではないということだ。(p119)

また、次のようなことも強調されている。

だが理解しがたいのは、残りの五分の四の期間は、ぜったいにセックスの営みに誘われることがないという点だ。セックスのために余裕が与えられている、非常に豊かな余裕が。しかしそれは、いわば隔離されたスペースだ。ゲセンの社会は、日常的機能においてはセックスぬきである。(p119)


多くの動物も、年の大半は(人間と違って)発情していない、つまり性交を行う状態にないけれども、ゲセン人がそれと異なるのは、その長い時期において両性を具有しているということで、作者はここに二元的でない全体性のようなものを精神的な理想として見出そうとしているらしい。
ゲセン人のこうした設定(発情期が限定され、生活の中の性別役割も存在しない)から帰結するとされているのは、最終的には「戦争の排除」という事柄である。非限定的な性の衝動や、それと結びついた性別役割から解放されることで、人々のエネルギーが戦争という国家間の暴力行為に動員されることがないような社会というものが、ここで想像されているのだ。
ゲセン人の住む星にはいくつかの国があるが、それらはこの地球の社会と同じさまざまな悪や暴力を知っているけれども、まだ戦争だけは知らないのである。


主人公アイが、はるか遠方の星間連合であるエクーメンから使節としてやってきたのは、ちょうどこの星の二つの国家であるオルゴレインとカルハイドとが、史上初めて「戦争」を行う(行いうる)国家への道に踏み込みかけている時期であった。これは、まったくの偶然だ。
強力な情報統制と人民への抑圧によって維持される官僚支配の国家であるオルゴレインは、まず先に集権的な国家機構を発達させて戦争が可能な国家に変貌しているのだが、これと対立する王制の国カルハイドも、オルゴレインとの紛争を利用して指導者が「恐怖」と「愛国心」を国民に吹き込み、戦争への道に進みはじめている。

「つまり、大陸に二つのオルゴレインができるのか、と」(p109)


この国家による「恐怖」の称揚に対置するように語られるのは、「戦争」を排除してきたこの星の人々の知恵ともいうべき、「不安」の肯定(受容)の思想である。

未知のもの、予言しえないもの、立証しえないもの、これが人生の基盤になるのです。無知は思考の基盤です。(p93)

人間の生活を存続させうるものは、永遠不変の耐えがたい不安ですよ、次に何が起こるかということを知らない不安です。(同上)


このへんは、非常に東洋的(老荘的)な感じのする部分であると同時に、ヴェーユやケインズといった30年代の思想家を思い出させる。もちろん現在の日本にも、同じようなことを言っている人はいる。
だがまた、この小説が書かれた60年代末期のアメリカの文化や政治の雰囲気も反映されているのだろうと思う。




さて、この小説は、上記の異星人であるアイ(肌の黒い男性という設定になっている)と、カルハイドの宰相であったが王の疑いをうけて失脚しオルゴレインに追放の身となったゲセン人エストラーベンの二人を中心に、両者の視点を交互にとって描くという手法で、概ね語られる。
ちょっと面白かったのは、二人の思いの微妙な食い違い、交錯だ。
エストラーベンは、高度な精神文明を持つエクーメンとの交流を開くことが、カルハイドだけでなく、対立国のオルゴレインを含めたこの星全体にとっての救済、希望になるという考えを持っている。この星の人々は、いま戦争への道に踏み込みつつあるが、エクーメンの文明には、それを制御するような知恵が含まれているに違いないと直観しているからである。
だがアイには、自分たちがこの星にもたらすものは、つまるところ情報(知)なのであり、そのことが「無知」を基盤としてきたこの星のすぐれた文化に悪い影響をもたらすのではないかという危惧を抱いているのだ。




小説の後半では、更生施設と呼ばれる極寒の地にあるオルゴレインの収容所のような所に入れられたアイを、エストラーベンが救出し、二人が大氷原を縦断して逃亡する様子が克明に描かれる。
この長い叙述、その過程における二人の精神の、あるいは情動の交換のようなものは、この小説の要なのだろう。
だがその内容は、ぼくには十分に読み取れなかったと思う。
印象に残ったところだけ引いておく。
エストラーベンは、氷原の上で自分とアイについて、次のように独白する。

畢竟彼は変人にして性的変質者にすぎず、予もまた然り。この氷原ではいずれも独りにして隔絶されている。予は予の世界の人々や社会や法律から隔絶されており彼もまた然り。予の存在を支持してくれる同胞の満ちあふれている世界はもはや存在せぬ。予らはついに平等になった。平等であり異邦人であり孤独である。(p281)


一方アイは、ケメルの時期に入って性的な外見と雰囲気を示し始めたエストラーベンに、同様の隔絶した状況のなかで直面したとき、次のように感じる。
この作品では読者は、アイの側により強く同一化しているはずである。

ふたたび私は見たのだ、あれを限りに二度と見ることを怖れていたもの、彼については見ないふりをしていたものを見てしまったのだ。彼は男であると同時に女だった。恐怖の源を説明する必要はその恐怖と共に消失した。私はついに彼のなかに認めるものをあるがままに受けいれざるをえなかった。そのときまで私は彼を拒否していた。彼という現実を拒絶していた。ゲセンで私を信じている唯一の人間である彼は、私が不信を抱いている唯一の人間であると言った彼の言葉は正しかった。なぜなら彼は私を人間として全面的に受け入れていた唯一の人間だからである。私に個人的な好意をよせ、私に個人的忠誠をよせ、したがって私にも同じ程度の容認、受容を要求していた人間だからである。私はいままでそうすることを肯んじえなかったのだ。そうすることを怖れていたのだ。私は信頼や友情を、女である男に、男である女にあたえることを欲していなかった。(p297〜298)


こうしてアイが気づくことになるのは、自分のなかにあった目の前の人間に対する「拒絶」だったのである。