『ミリオンダラー・ベイビー』再考

今年も終わろうとしているので、この一年に観た映画のなかから印象的なものをあげておきたい。
といっても、「すぐれた作品」とか「面白かった映画」ということでは必ずしもなく、今年を象徴するような作品。
その意味では、クリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビーhttp://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050613/p1
が思い浮かぶ。
というのは、この作品には(おそらく)監督であるイーストウッドが持つ、人生に対するある種の思想のようなものが色濃く出ていて、それが現代のアメリカや日本の社会の方向や風潮とどこかで重なっている気がするからだ。
その思想とは、生の独立を重んじるということ、つまり、「生きながらえさせる」ことへの拒絶の意志と呼べるものだが、これは政治的に言うと、「反福祉国家」の思想につながるのではないかと思う。


ミリオンダラー・ベイビー』は、貧しい家庭で育った女性が、老トレーナーの助力を得てボクシングの世界で成功を収めかけるが、試合中の事故で全身麻痺となり、やがてトレーナーの手で安楽死に至るというドラマである。
この映画のヒロインは、自ら死を望んでいるのに、法の壁のようなものがあり、死を得ることが出来ない。これに対し、イーストウッド自身が演じるトレーナーは、注射器を使って彼女を死に至らしめることで、彼女の生と死の尊厳を保障する道を選んだ。それが、この映画に示された、人間の生と死についてのひとつの態度だったのではないかと思う。
だが、行政の側からこの行動を見るなら、それは「医療費の削減」という課題と結びついていることもたしかだろう。つまり、社会保障費をどうカットしていくかということで、イーストウッド的な独立の思想というのは、「小さな政府」と呼ばれるような政策上の思想とたしかに重なっているところがあると思う。


このことは、トレーラーハウスで暮らすヒロインの母親や兄弟が、社会保障の制度を利用して堕落した生活を送るどうしようもない貧しい人たちという、ステロタイプともいえる姿で描かれていたことにも、よく示されている。
だがさらにイーストウッドの人生に対する思想をよく示していると思えるのは、モーガン・フリーマンが演じる元ボクサーの年老いた黒人だ。彼は、ジムの一隅の小さな部屋を住居にして暮らしている。このジムの経営者であり、古くからの友人であるイーストウッドが死ねばどうなるのか分からないような暮らしに思えるが、おそらくそういう生き方をイーストウッドは「自分の人生の責任を引き受けた」理想的な生き様として描いていたのではないかと思う(たしか、若いときの試合中の事故で視力に障害が残った、という設定だった)。上記のヒロインの家族たちと比べると、まったく対照的な生き方に描かれているのだ。


イーストウッドの映画では、人生の勝者と敗者というものが、非常にはっきりと描かれる。そしてそのそれぞれに、自分の人生を生きるものとしての尊厳を見出す、という態度が貫かれているのではないかと思う。
これは、福祉国家の思想とはだいぶ趣きを異にするものであると同時に、いわゆる「新自由主義」の思想とも違っているだろう。新自由主義は、「敗者の尊厳」を認めないだろうからだ。
だが、両者がまったく無縁であるということもできない気がする。


ミリオンダラー・ベイビー』を含めてイーストウッドの映画は、闘争の映画だとはいえるが、競争の映画でも、戦争の映画でもない。
むしろ、本当の闘争は競争や戦争を否定する、というヘミングウェイ的なテーゼをそこに読み取ることさえできなくはあるまい。
といっても、それがあくまで男性中心主義的な、したがって潜在的に(ある種の)国家主義的な映画であることは否定できないのだが。