家永三郎『戦争責任』

戦争責任 (岩波現代文庫―社会)

戦争責任 (岩波現代文庫―社会)




家永三郎というと、僕らの世代にとっては歴史学者という以上に教科書裁判の主役という印象が強く、正直、堅苦しい人のようなイメージがある。しかも、このテーマである。文庫本にしては随分な分厚さということもあって、買いはしたものの、ページを開くのはあまり気が進まなかった。
だが読み始めてみると、最近になかったほどに引き込まれて、あっという間に読み切ってしまった。その大きな理由は、市井の庶民である戦争体験者や兵士たちによる回想・証言・手記の類、また軍人、政治家、侍従らによる、やはり回想や記録といった、きわめて豊富な資料の引用という、本書のスタイルにある。
この本は学問的・ないしは道徳(倫理)的な論究の書というにとどまらず、貴重な史実と肉声の生々しい集積であり、その歴史の生々しさによって読む者を引き込み、いつしか今を生きる自分にとっての「責任」ということを考えさせるのである。


今回読んでみて、非常に強く印象に残ったことは何点もあるのだが、とくに大事と思うものを、いくつか挙げてみよう。
一つは、これは著者の史観として広く知られていることだと思うが、真珠湾攻撃に始まる米英などとの戦争が、それ以前からの中国に対する侵略戦争から切り離せないものとして捉えられている、ということである。
そのことを著者はここでは、いわゆるハル‐ノートに対する日本側の対応などを詳細に分析して論証しようとしているのだが、その大きな目的は、太平洋戦争を自衛のための戦争だったとする、戦後も日本政府が陰に陽に続けてきた主張を斥けるというところにある。

日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとするアメリカ・イギリス・オランダと開戦することになったのであって、中国侵略戦争の延長線上に対米英蘭戦争が発生したのであり、中国での戦争と対米英蘭戦争とを分離して、別個の戦争と考えることはできないのである。(p135)

・・・中国侵略の継続の必要から決行された対米英開戦を自衛権の行使と解する余地はない。(p144)

こうした視点は、僕のなかにはあまりなかったものなので、目を開かれるような思いがあった。
また著者は、戦争中に日本軍が行った残虐行為のなかでも、とりわけ七三一部隊のそれを重視し、非常に多くの証言や記述をそこにあてていることも印象深かった。
日本軍の残虐行為、とりわけ中国戦線におけるそれというと、いわゆる南京大虐殺に代表されるような、日常なり軍隊生活の中なりで溜め込まれ抑圧されてきた攻撃性やレイシズムが噴出したかのような、いわば非理性的な衝動によるものを想像しがちだったが、著者がここに見ているのは、それとはまったく種類を異にする残虐性、非人間性のあり方のようなものである。

七三一部隊の残虐性の特質は、戦場でのそれと異なり、敵軍と接触のない後方の秘密地帯で、冷静かつ周到な計画を立てておこなわれたところにある。この点ではまさしくナチスアウシュヴィッツの収容所のそれを思わせるものがあり、殺人の人数においてはアウシュヴィッツよりも少ないにしても、殺害方法の残忍な点でははるかに彼をしのぐものがあること、しかもその計画者・実行者が、本来は人命救助を任務とする医学者たちであり、部隊長軍医中将石井四郎をはじめ、日本の医学界での第一級の頭脳の持主が多かったことにおいて、深刻な問題を提供するものといわねばならない。(p86)


このような指摘は、福島第一原発の事故を契機にして明るみになってきた、原子力工学放射線科学・医学といったもののはらむシステマティックな暴力性が、日本の学術の歴史のなかでどこに根を持っているのかというようなことを考えさせる(現在では、例えば足尾鉱毒事件に関する当時の医学界の対応などから、その淵源が必ずしも戦時に特定できるものではないことも分かってきている)。
原発事故に関わる事態を想起させる例は、他にもある。特に、戦争末期、ソ連軍の侵攻から逃れようとする満州の人たちの状況を描いた、次のようなくだりは印象深い。

関東軍は、辺境の住民を見棄ててひそかに後退したばかりでなく、「満州国」の首都新京でも、軍人軍属の家族を真先に避難列車に乗せていち早く南下させ、一般庶民は置き去りにされた。


(以下資料からの引用文)こんな場合になっても、悲しいことには避難列車にも階級と序列があって、軍人、軍属の家族、政府、それから特殊会社と呼ばれる国策会社社員の家族という順序だった。そして特殊会社にも大から小まで順序があった。(中略)一般市民や個人商店にいる人たちには乗車割当てがなかったのだ。・・・・(p231)



ところで、「解説」のなかで澤地久枝は、家永の論においては天皇の戦争責任にあまり力点がおかれていないのではないかと、批判している。

しかし、「戦争責任」が女子供をふくめて広く広く問われているのに反して、昭和天皇の戦争責任についてはあまり力点がおかれていないと感じる。そのため、戦争責任の所在は求心的であるよりまとまりにくいものになっていないだろうか。(中略)
 大日本帝国憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は、天皇は一切の問責をまぬかれることを意味すると専門家はいう。しかし、天皇がその意志如何は別としても、絶対の神として存在したことが、あの戦争を可能にした。その責任はどうなるのか。(p457)


この問いかけは、非常に重要なものを含んでいると思うのだが、長くなるのでここでは詳しく触れない。家永の天皇の戦争責任についての論は、よく読むと論理的な瑕疵はないと思うのだが、たしかに根本的なところで明確な態度決定を避けている節がある。澤地の言葉は、そこを鋭く突いているのだ。
そしてこの問題は、僕にはジェンダーの領域に深く関わるものに思えるということだけを、書いておく。


また、本書での戦争責任についての考え方だが、著者は、いわゆる「一億総懺悔」の思想を、次のように明快に斥けている。

戦争責任の追及を、警察の実力により封殺する方針の立てられていたことは、降伏という未曾有の時局に際しての権力者の周到な対策として注目に値しよう。このような強硬方針では有効でないと気づいたのであろう、東久邇宮内閣では「一億総懺悔」ということが唱えられた。国内における戦争責任の質的相違を解消し、権力者に対しては多くの場合被害者であった国民大衆から権力者の戦争責任追及の声の発せられるのを予防するための口実として考案されたスローガンであった。(p386)


そこから、著者の戦争責任についての非常に具体的で綿密な区分の論理が出てくるのである。まずもっとも大枠でいうと、著者はヤスパース丸山真男を参照して、法律上の責任と政治上・道徳上の責任という二つのものを大別する(ただここでは、ヤスパースのいう「形而上的な責任」はそれらとは別枠に置かれている)。(p34)
そこから一方では「国際法上の責任と国内法上の責任」とか「国家の責任と個人の責任」といった入り組んだ複雑な区分が考えられ、また一方では権力者や兵士や国民個々それぞれの立場によって異なる無数の具体的な責任のあり方や、さらには連合国側の戦争責任も細かく区分されながら論究されることになる。
では、家永におけるこうした責任の厳密な区分の意志は、何に由来すると考えるべきだろうか?
その手掛かりを与えてくれると感じたのは、以下の箇所である。
家永は、戦争中に軍隊は国民・住民をまったく守らなかったという問題を論じる中で、曾野綾子の、戦争中の軍隊というものはただ「戦力を守る」だけのものであるのは当然であり、軍隊が非戦闘員(住民)を守るという考えは、まったく戦後的な発想(幻想)に過ぎないという趣旨の文章をとくに引いて、これに反論を加えている。

曾野の所論は、当時の日本軍の実態について見ればまことにリアルな認識である。しかし、それは日本軍についての事実であっても、法律的・道徳的に許容されるというわけでないことを看過してはならない。日本軍は、帝国憲法を頂点とする法体系のなかで法的に設置維持されている国家機関であり、それ自体自己目的としての価値を固有する存在ではなかった。(中略)・・・帝国憲法といえども、国民の生命を守ることを大前提とした立法であることを明示している。曾野の主張は、作戦要務令綱領という軍隊内部の掟が、日本国家の法秩序に優先する最高規範であるかのように考え、軍が国家の法秩序内の存在であることを忘れた謬論といわざるを得ない。私は、憲法の告文や上論の文理解釈のみに基づいてではなく、近代国家の本質論から導き出される条理に基づいて論じているのである。(p254〜255)


この箇所は、家永が天皇の戦争責任を考えるにあたっても、なぜ「帝国憲法」という当時の国内法の枠内での責任から論じ始めるのかという疑問にも、示唆を与えくれる。
家永が、その責任の区分の思想、そしてその中での例えば国内法(帝国憲法)なら国内法の枠内での責任の有無ということにこだわるのは、ここで言われている「リアルな認識」というものへの対抗のためなのだ。
「戦争だからやむを得ない」というような種類の「リアルな認識」(別の個所では、戦争中の人体実験についての、上坂冬子の同様の言説を槍玉にあげている)は、実は国家や軍隊や法律といった存在の現実性を忘却した、空想的な議論にすぎない。
そこに見られるのは、「リアル」に名を借りた現状追随のシニカルな態度であり、それに対して家永は、生きた人間と制度(国家)とを結ぶ憲法という「条理」を対抗させることで、虚無への誘惑のようなものを断ち切ろうとする。
実際、この直後の個所で家永は、戦争責任を不問にして戦争を肯定するかのような、戦後日本の戦災「受忍」の思想、つまり「やむを得なかったのだ」「仕方ないのだ」という諦めを自明化するような日本国家のイデオロギーを、厳しく論難していくのである。
したがって、家永における「責任の区分」とは、現状容認のシニスム的思考に対抗する構え、人間を現実の生のなかに主体的なものとしてつなぎとめるための方策であると考えられる。責任を曖昧にするのでなく、厳密に区分し、国内法なら国内法という「条理」のなかで、それを明確にしていこうとする態度こそ、現実と生への諦めを強いてくる「受忍」の支配イデロギーへの抵抗である。家永の論理の根底にあるのは、そんな精神性だと思えるのである。


それはよいのだが、このことを先の澤地久枝による家永批判と結びつけて考えるとき、この家永の態度をまったく肯定してよいのかどうか、疑問になってくる。
家永は、曾野・上坂的な、「受忍」につながる現実容認の態度(シニスム)を批判するために「条理」というものを持ち出すわけだが、この構え自体には、何らかの抑圧性が含まれていないであろうか?
澤地によれば、家永の論は、そのきわめて強い論理性と倫理性にもかかわらず、天皇の責任を明確化することを最終的には避けているようなきらいがあり、そのことである種の抑圧性を持ってしまっているとも考えられるのである。
このことも、これ以上は論じないが、少なくともわれわれとしては、家永のすぐれた戦争責任論を、澤地からの批判を手掛かりとして乗り越えて進んで行くような、戦争責任への取り組みをなす必要があるのではないかと思う。


最後に、僕個人が本書のなかで最も衝撃を受けたくだりを引いておきたい。

ドイツ人やイタリア人のように、悪魔と化した「祖国」への抵抗者を多数出さなかった日本人の一般的意識からすれば、まず自分自身の、たとい戦争に協力しなかったにせよ、不作為の消極的戦争責任への反省から出発することが第一の急務であったとも思われるのである。まして、戦争中に「上手に時局に便乗していた人」の場合、(中略)いずれにせよ戦争終了によって新しい平和と民主主義の精神を説く道に進路を転換させるのであったならば、まず戦争中の自分の言動に厳しく自己批判を加え、その誤りを率直に告白し、自己の責任を広く世に明らかにしたのちに、新しい道に転身する手続きが必要であった。そうした確固たる主体的決断によらない、外側の情勢の変化に同調した思想的転換であったならば、それは外側の大勢に埋没しての戦争協力と、方向は反対でも意識のあり方は同質というべく、もう一度外側の情勢が逆転すればまたまたそちらに再転しないという保障はない。事実、多くの人々が戦争中は戦争に熱心に協力し、降伏直後の民主改革期には平和と民主主義を唱え、「逆コース」が始まると、またまた再軍備・民主主義空洞化政策に追随するという思想的転変を示したのであった。戦争責任の問題を真剣にとり上げようとするときに、何よりも先に自己の戦争責任の問題にたじろがず直面することは、そのような没主体的思想彷徨に堕するのを防止するためにも、避けてはならない課題であったのである。(p420〜421)


これは一般論ではなく、他人を攻撃したり差別したりすることから、攻撃や差別を批判する態度へと転じる際、『方向は反対でも意識のあり方は同質』ということは、常にありうることである。そうなる理由は、『自己批判を加え、その誤りを率直に告白し、自己の責任を広く世に明らかにしたのちに、新しい道に転身する手続き』を、自分が踏んでこなかったからであろう。
そういう日本社会の「戦争責任」をめぐる心のあり方が、自分のなかにも、しっかりと根付いてしまっていることに、思い当たらざるを得なかったのである。