橋下発言が露呈させたもの

慰安婦問題、風俗業をめぐる橋下氏の発言要旨(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/politics/update/0514/OSK201305130144.html


今回の橋下の発言を最初に知った時、まず思ったことは、この言葉自体がひとつの凶悪な暴力であり、元「慰安婦」の人たちはもちろん、性暴力や差別を被ってきた人たちにとっては、セカンドレイプに等しいものだろうということだった。
そして、そんな暴力が許容されるどころか「口外しないほうがよい本音」として暗に肯定されてしまうという、この僕らの社会の醜悪さを、彼の発言に同調もしくは黙認する者たちの言動(例えば「不用意な表現は国益を損う」!)を介して、橋下発言は被害者達を含む我々のすべてに突きつけた。
この意味で、この暴言の(暴露的であると同時に)脅迫的な効果は二重なのだ。
橋下は、日本が「レイプ国家」呼ばわりされることを不当だと考えているらしいが、日本がそういう暴力肯定的・差別是認的な体質を持つ「レイプ国家」だということを、世界に大きく宣伝したのは、他ならぬ彼自身だ。
慰安婦」問題が、日本の政治家たちがどう強弁しようとも、被害者たちが証言する通りの非人道的きわまりない国家的行為であったという事実を、橋下発言ほどに国際社会に説得力をもってアピールしたものも稀であろう。
橋下発言はどうしようもない空言と暴力の塊りだが、その暴力性の露呈だけは真実である。その暴力性とは無論、この国家自体と、また僕たち自身にも内在している暴力性なのであるが。


橋下発言の持つ暴力性には真実がある、といま書いた。
どういう意味か。
それは、彼の憎悪に満ちた空言が、何らかの事実を言い当てているということでは決してなく、その言葉を容認したり、(自民党の政治家たちのように)形だけ批判して(実際には問題を矮小化して)済ませようとする者たちが身に纏っている、抜き難い差別性を露呈させる効果を有する、ということなのだ。
彼の言葉は、それを明確に否定するか否かという態度において、その人の差別性の度合をあからさまにしてしまう。こうして、日本という国家・社会の独特な差別性、暴力性も、世界に知られることになったのである。
彼の言葉は、当人がどこまで意識しているかに関わりなく、差別的な自己と社会を是認し維持し続けよという、われわれへの呼びかけだ。
この呼びかけを拒むには、つまり性差別的でない自分を構成していくためには、彼の暴言への反対を、ただ言葉だけでなく、日常の態度においても示していく以外にない。そのような形で彼の言葉の暴力に敵対しない者は、差別に参加せよという彼の呼びかけの力に抗することが出来ないのだ。
橋下発言のようなものは「無視することが一番よい」などという、実質的には抗議の意志表明の意義を貶めるかのような言い分が、愚かなものだというしかないのはこの為である。


橋下は、「慰安婦」制度を活用した国は日本だけでなく、他にもあるではないか、だから日本だけが非難される謂われはない、と言う。
これ自体が、日本がかつて行なった大規模な国家的行為の悪質さを希釈しようとする詐術的な物言いなのだが、仮に彼の言い分を認めるとしよう。
だが、そうした戦争中の非人道的な自国の行為を、「それは必要だったのだ」という論理によって正当化しようとしている国はない。その正当化の言説が容認されたり支持を集めている国も、無論ない。
また、橋下が「風俗業」と呼ぶ広義の性産業は、もちろん世界中にあるだろうし、それに関わるさまざまな差別や暴力や搾取が存在することももちろんだろうが、そうした搾取や人権侵害が生じうる状況を手放しで肯定するかのような言説が公人によってなされたり、それが政治家やマスコミや大衆によって容認されるような国も、もちろんないのだ。
なぜないのかと言えば、そのような(特に権力者による)発言は、それ自体が暴力であり迫害だと認知されているからだ。
日本の社会は、こうした認知を持たないことを基盤として形成されているのである。


過去の非人道的行為を「必要だった」からと言って正当化し、また「性犯罪を防ぐ」ためという目的のために「性」を商品として買う行為を肯定し推奨するような言葉や行動は、特にそれが権力者によってなされるなら、暴力や差別のない社会を作っていこうとする意志に敵対する具体的な挑戦となる。
人々は、そうした言動を許さないことによって、社会と自分たち自身の中に宿っている巨大な攻撃性に、何とか歯止めをかけようとする。それが、人間の社会というものだ。
われわれのこの社会は、その意味での「人間性」を軽蔑し放棄しているのである。
それは、この国が依然として、「慰安婦」制度が存在していた時代の、暴力と差別と性の支配の欲望のままに他者を攻撃して恥じないような体質から脱却していないこと、むしろ急速にその時代のあり方に立ち戻りつつあるという事実を示している。
いま世界の人たち、とりわけかつて侵略されたアジアの人たちの前に曝け出されつつあるのは、その僕たちの国の真実の姿なのである。




橋下発言の「内容」について、それが空言であることを承知のうえで、まだ強調しておきたいことがある。
それは、橋下のこうした発言と、最近の安倍政権の閣僚や自民党幹部たちの、歴史問題をめぐる発言との共通性に関わる。すでに書いたように、この国の悪しき体質は、戦前から根本的には変わっていないことも事実であるが、同時にその事実がここ数年ほどにあからさまとなったこともない。この問題を、橋下の発言内容を糸口にして考えておこう。
まず大事なことは、「慰安婦」問題とは、植民地支配と侵略戦争という、(とりわけ他者にとって)歴史的に固有な状況と深く結びついた出来事であり、政治家が論じる責任や謝罪・補償の問題は、専らそこにおいて考えられるべきだということだ。
橋下は、この歴史上の他者の被害体験(日本人にとっては加害体験)を、おそらく幾分かは意図的に、新自由主義体制下の現在の状況に重ねようとしている。
『精神的にも高ぶっている集団』には『休息が必要』であることなど誰にでも分ると言うとき、橋下は戦時中の兵士達のことを想像しているわけではなく、現代の企業社会において「戦士」とされている人たちに、「あなたたちには分りますよね」と呼びかけているのだ。
いや、橋下が意図的にそういう政治的レトリックを使っていなくても、彼がここで「必要」の名の下に正当化しようとしているのは、何より現代社会の「戦士」だと自己規定している自分自身の欲望や攻撃性のあり方だ。
戦時中の兵士達の状況なり欲望なりは、「国家」や「愛国」という流行のお墨付きによってこの正当化に箔を付けるための道具でしかない。
彼は、現在の自分を正当化するために、歴史を持ち出しているのである。
そこに見られるのは、むしろ「歴史の否定」と呼べるような意志だ。
この意志こそ、僕が橋下だけでなく、安倍や麻生、石破、高市といった、自民党の政治家たちの多くの「歴史認識」をめぐる発言にも共通して感じるものなのである。


よく、日本と周辺諸国との「歴史認識問題」ということが言われるが、これは現在においては、やや特異な性格を持っていると思う。
特に上にあげたような日本の政治家たちに共通しているのは、現在を生きている自分個人の価値観や気持ちや感覚に最も重きを置いており、それを満たしてくれる、もしくは正当化してくれるようなものとしてだけ、国家やその歴史が持ち出されてくる、という印象である。
現在を生きる自分という、孤立した一個のものの感覚が全てであって、それを満たしたり正当化するものとしてだけ歴史が考えられている。むしろ、そのようではない歴史、自分とは違う過去の人たちの体験としての、実際の歴史というものは、消去してしまいたい対象なのだ。
歴史修正主義」とはまさしくそうしたものであるという以上に、それはどの国であれ新自由主義的な社会の特徴だとも言えるだろうが、それにしてもこの傾向は、日本の政治家たちには特に顕著であると思われる。それは、この国の社会や文化の底に元来流れている、とりわけ近代以後に有力となった、人々の生死の経験としての歴史を重視しない傾向(生死を「仕方ない」ものと捉える心性)に拠るものなのだろう。
明治の頃、日本人が当時世界を席巻した帝国主義の弱肉強食の論理に易々と順応したように、今の日本人たちは、その独特な「自然主義」的傾向によって、今日の新自由主義的なイデオロギーの潮流にいち早く同化しているように見える。
はっきり言えることは、今の日本の政治家たちの歴史に対する態度は、根本的に歴史否定的なものだということだ。
それは他者(被害者・少数者・死者たち)の体験としての歴史を忌避しようとする態度であり、さらに突き詰めれば、生きて死んで行く有限なものとしての自分自身の生を否認し続けたい、そのためには他人をどれほど犠牲にしてもいっこうに恥じないという浅ましい態度なのだ。


この歴史否定的な態度の現われとして、今回の発言において橋下は、「慰安婦」問題を現在の社会状況のアナロジーにおいて語ったばかりでなく、それをやはり現在の在沖米軍と「風俗業」の問題に接続させたのである。このことに関しても一言しておきたい。
ここでも橋下の個人的な意図が、自分の欲望なり人生なりの正当化にあることは明らかだろう(個人的でなく、政治家としての目論見などにはたいして関心がない。それがどうあれ、政治家としての彼は破滅していくだろうし、それこそが彼の内心の願望だと思えるからだ。願うのは、出来るだけ他人を巻き込まずに沈んでいってほしいということだけである)。
ここで重要なことは、彼が「慰安婦」問題という、権威主義的政治体制と植民地支配下の、しかも戦時において発生した出来事と、曲がりなりにも経済的な交換の「自由」が保たれている現在の(軍隊と)性産業の問題との区別を取り払ってしまったということだ。
これは一方では、現在性産業に従事している人たち(及び兵士を含む全ての労働者達)の労働のあり様を、現状以上に非人権的なものへと追いやろうとするロジック(「お国のために犠牲になれ」)であると同時に、植民地支配とファシズム国家による戦争という状況下に厳然と存在した国家による強制という事柄、すなわち国家犯罪としての「慰安婦」問題という性格を忘れさせる効果をもつ。
現代社会における性の商品化は、それを「買う」側の問題としては、たとえ(橋下や松井が強調したがるように)法的には問題がなかったとしても、倫理的には不当さを含まざるを得ないだろう。だが自らを商品化する側の問題としては、それが生きるためのやむを得ない選択であったり、社会の現状のなかで自分らしく生きるための限られた選択肢の貴重な一つである、ということがありうる。撤廃されるべき搾取の構造は言うまでもなくあるが、社会の現状がこのように不当である限りは、そこに自分の人生を選び取っていく人の自由の尊重という問題の次元が存在することは否めない。
だが片や、あの時代の状況下では、「慰安婦」にされた人々は皆、否応なく性奴隷とされたのだ。もちろんその時代でも、個人の様々な意志はあっただろうが、それらを全て無意味にしてしまうのが、ファシズムと植民地支配と戦争の暴力なのだ。植民地下では誰もが、強制的に連れ去られたり、業者の甘言に騙されて「慰安婦」となった。そのなかには、その甘言のなかに自力で生き抜いていく願望の実現を夢見た人も、やはりあっただろう。だがそれが実際には全くの嘘であり、大量の軍人達を相手にした奴隷的な性労働に他ならないという現実を知った時、殺され、身内にまで危害の及ぶことを覚悟しなければ、それを拒んだり逃げようとすることなど出来なかった。つまり、死以外の逃げ道はなかったのだ。それが、植民地支配と侵略戦争下の現実というものである。
この巨大で不当な政治的現実(それこそ、安倍政権が再現を狙っているものだ!)を見ずして、「慰安婦」問題を捉えたことにはならない。橋下発言がこの次元から目を逸らせようとするのは、そうすることが日本国家の為政者たちにとって好都合だからでもあるのだ。
橋下の一連の不当なロジックは、当然の謝罪と補償を求めている他者たちの過去の体験を愚弄するばかりではなく、いま現在、さまざまな意志や夢や希望や苦悩を抱いて働いているかもしれない無数の人たちの生を、再びあの時代と同じ暴力のさなかに叩き込もうとする、自民党を初めとした全ての権力者たちの悪意の現われなのである。
この悪意の巨大な総体に対してこそ、僕たちは立ち向かわねばならない。