『国家と犠牲』

国家と犠牲 (NHKブックス)

国家と犠牲 (NHKブックス)


原爆投下は「しょうがない」という発言で今年物議を醸した久間元長官だが、この本の次の一節を読むと、こうした発想が、もともとこの政治家の根っこにあるものらしいことが分かる。

たとえば、最近日本における「有事法制論議のなかで、久間章生防衛庁長官がこう述べたことがあります。


 国家の安全のための個人の命を差し出せなどとは言わない。が、九〇人の国民を救うために一〇人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る(朝日新聞、二〇〇三年六月三〇日)。(太字強調は、高橋の著作の通り)


九割の国民を救うためには一割の国民が生命を失ってもそれは正当なことだと、防衛庁長官の経験者が考えていることが分かります。「やむを得ない」というのは、正当化=ジャスティファイ(justify)されうるということです。九割の国民を救うという理由のもとに、一割の国民の生命が喪われる。これはたしかに自衛戦争の論理ですが、いずれにせよ戦争という「地獄」のなかで殺されていった一割の国民の死の無残さ、おぞましさを、九割の国民を救ったという結果によって減殺さらには隠蔽し、その死を「尊い犠牲」の聖なる死にしてしまう。正当化=ジャスティファイしてしまう。ここにもまた典型的な「犠牲」の論理が働いているわけです。(p209〜210)


この本で高橋哲哉は、まさに久間の地元(長崎県)でもある長崎への原爆投下にまつわる有名な書物、永井隆の『長崎の鐘』の一節を重要な手がかりとして、あらゆる国家や社会の根底に抜きがたく存在している「犠牲の論理」なるものをあばきだしている。
とくに近代以後の国民国家にとっては、おぞましいものとしての(特に戦争による)死や死者を聖化・聖別するものとしての「犠牲の論理」は、その存立を支える原理、一般的構造であるとされ、それゆえに容易に逃れることのできないものであることが示される。
上に引用された久間章生のコメントも、「国家」とわれわれ「国民」がともに欲望することによって機能していく、「尊い犠牲」の名のもとでの、「死の無残さ、おぞましさ」の否認、ある人々を死なせること、死なせつつあることの「正当化=ジャスティファイ」の方法(レトリック)としての「犠牲の論理」なるものを暴きだすために引かれているわけである。


だが、久間に限らず、そしてまた特に政治家にも限らず、いまの社会において当たり前に口にされる「しょうがない」「やむを得ない」という物言い、人々の死への対処の仕方に触れるとき、そこではもはや死の「聖化・聖別」のメカニズム、「尊い犠牲」というレトリックさえ使われることがないという印象を持たざるを得ない。
「国家教」(河上肇・高橋)という形で国民国家を成り立たせ支える「犠牲の論理」の働きがなくても、いまやわれわれの社会(国家)は、一定の人々の死を「多数」とか「われわれ全体」の利益の名のもとに、「正当化=ジャスティファイ」することができるのではないか。
それは、国民国家(犠牲の論理)という装置よりも、よりましな装置だといえるのだろうか?


だがまた、次のことも忘れてはならない。
それは、原爆投下について「やむを得ない」という趣旨の発言を平然とおこなった公人は、決して久間が最初ではないということである。

ちなみに、昭和天皇は一九七五年、初めてアメリカ合衆国を訪問します。米国訪問から帰ってきた時に、日本記者クラブで記者会見をしましたが、そのとき記者から次のような質問が出ました。「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止められましたか」(以下、読売新聞、一九七五年10月31日付朝刊第一面より)。これに対する昭和天皇の答えはこうでした。「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思ってはいますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」。(後略)(p74)


開戦の詔勅を発した当人が、原爆投下について「気の毒であるが、やむを得ない」という、他人事としか思えないコメントを平然とおこなっているのである。
この「言葉の軽さ」は、久間や、現在の総理大臣、閣僚などの比ではないだろう。
あくまで揶揄する意味で「ポスト国民国家的」とも呼ぶべき、殺されていく命、死ぬままにされていく命への、ときに「犠牲の論理」さえ必要としないように感じられる軽視、無視、「正当化=ジャスティファイ」の横行の根源は、このような権力の「無責任」さをわれわれが乗り越えないままにきたところにこそある。
責任が曖昧にされ続けてきた、この国の近現代史の積み重ねのなかで、この国の言葉は当然のごとく虚ろになり死んだのである。


われわれが克服するべき「犠牲の論理」と「国民国家」は、このような固有の形をしているのだということも事実である。