『証言記録 兵士たちの戦争』

さっきの記事で『証言記録 兵士たちの戦争』に触れたので、その感想を簡単に書いておきたい。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090811/p1


毎年この時期になると、NHKの地上波で深夜枠に何本かが再放映されるのだが、毎回見入ってしまう。
このシリーズの大きな特徴は、先にも書いたように、日本の軍隊の組織としての欠点、愚かさを構造として浮き彫りにし、現在の社会(政府・官庁・企業など)にも通じるその人命軽視、現実(現場)無視の体質を告発していることだ。
そこには、戦争(戦時)という特定の状況と時代に限定されない、近代日本社会の通時的な弊害のようなものを明るみに出すという、優れた効果がある。
さっきの記事では、NHKの他の戦争検証番組にも見られるこうした視点のとり方を、むしろ批判的に論じたわけだが、一方で、このような視点をとることの意義も、やはり小さくないことは確かなのだ。


だがそれ以上に、ぼくがこの番組に引き付けられるのは、そうしたメッセージやナレーションで紹介されること、証言されることの内容よりも、証言する人たちの言葉や沈黙、表情、素振りそのものによるのだと思う。
これは、すべての優れたドキュメンタリー映像に共通して言えることだろうが、証言者の姿と声を収めた映像と音声そのものを通して、証言者の個人性さえも越えた、生きているもののぎりぎりの形や声、沈黙に、たしかに触れると感じ、その感触を求めて、ぼくはこの番組を毎回見ることになるのである。
それはきっとこの証言者たちが、人間としてのぎりぎりの状況を、過去ばかりでなく、それを思い出して語っている現在において体験しているが故に、可能となる出来事なのだろう。ともかくそういう、なにかぎりぎりの生の形と声のようなものが、テレビ画面の向こうに現れることを、ぼくは知り、またその再現を求めて番組を見てしまう。
そこには一種の(消費の)危険もある気がするが、ぼくに関してはそれが事実である。


ところで、飢餓のなかでの絶望的な行軍を強いられたニューギニア戦線での体験を扱った回のなかでは、兵士たちによる人肉食など、悲惨な出来事が語られた。
その証言者の一人だった、ある元兵士の老人の言葉が忘れられない。
その人自身が、そうした行為に手を染めたということではなかったはずだが、その人は、こう言ったのだ。
「それ(人肉食)はたしかにひどいことだが、それが起こることも無理のないような状況だったのだ。証言を聞こうとする人たちは、そこまで徹底して聞いてほしい。他にも手段があったなどとは、思わないでほしい。」


この言葉が語っているのは、こうした極限的な状況を生きた人たちの証言においては、証言を聞く側のあり方こそが、真に問われているのだ、という一事であろう。
証言の場で、何よりも第一に要請されるのは、証言を聞く側が自らを「徹底して」聞くことが出来るかどうか、そこに示される生(命)の形に、どれだけ深いところで自分をまみえさせることが出来るか、ということなのだろう。
この人の言葉は、その基本的な事実を、われわれ証言を聞こうとする者たちに突きつけているのだと思う。