「支持」や「参加」を拒む義務

「長崎平和宣言」の一節から。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090810ddm004040050000c.html

世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。


この「支持」という言葉に、違和感がある。
アメリカが大量の核兵器保有しているということは、それ自体ですでに大罪を犯しているわけである。その当の国の最高権力者が、核の廃絶を世界に訴える演説を行ったということに対しては、核の廃絶を求める市民の立場としては、その言葉の通りの行動がなされるかどうかを「監視する」、柔らかく言っても「見守る」という態度が妥当であって、「支持する」というのは、どこか違うのではないか。
罪を犯している人が、それも実際の罪(暴力)を過去に(ある意味で唯一)犯し、現在も数の上では図抜けて最大の罪を犯している者が、世界に向って「暴力の廃絶」を訴えるということは、よほどの実行か、真摯な反省の言動と営みが伴っていなければ、「評価」されることはあっても、「信頼」されるわけにはいかないものだと思うのだが、ここではそれどころか、「支持する」ことが呼びかけられているのである。


もちろん、すぐにこういう反論があるだろう。
ここで支持が呼びかけられているのは、プラハ演説に対してであって、オバマ大統領の存在や政策の全てではない。
どこの国の人間であれ、組織や軍や企業や国家の利益を守るために、他国と自国の人間を危険にさらしても核兵器を開発・保持して恥じない連中というものが現実に居るのであり、そうした世界中の全ての、とりわけアメリカ国内の(また日本の)「核兵器保有支持勢力」に反対してオバマの演説を支持する、後押しする。この宣言の文言は、そういう意味であるはずだ、と。
なるほど、文面上はそうだろう。
だが、プラハ演説には当然ながら、被爆者や核の廃絶を願う人たちの思いとはまったく別のものとして、アメリカの国家戦略という要素が強くあるはずである。ましてそのアメリカは、この日本の同盟国だ。
そのアメリカ大統領の演説に対して「支持」という言葉を使うことは、やはり適切でないと思うのである。


おそらく、この「支持」という言葉を文言として盛り込むにあたっては、かなりの議論があったのではないかと思う。
だから、こういう批判的なことを書くのも気が引ける。
だがNHKのニュースなどを見ると、すでに「オバマ大統領(の方針)への支持」が平和宣言で表明されたというようにニュアンスの置き換えがなされて報道されているので、やはり書いておこうと思う。


ぼくが批判したいのは、ここで「支持」という、対象への積極的な賛同・同一化を思わせるような言葉が選択されていることだ。
上に引用した部分の直前では、こう言われている。

長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません。


指導者や政府に任せず、私たちひとりひとりが歴史をつくるということは、ある政治家(日本の同盟国でもある大国の指導者だが)の演説への「支持」を表明することで、政治に「参加」するということであろうか。それは、国々によって作られる政治と歴史に、われわれが下位の機能として組み込まれ、同一化していくというだけのことではないだろうか。
そのような意味での「参加」を、むしろ拒む態度にこそ、歴史をつくるということの可能性があるのではないか。
「指導者や政府だけに任せ」ないということの意味は、指導者や政府が言葉に反して何を行っているかを、監視し、批判していく、ということである。
そのためには、われわれはその意味での政治、つまり国家や制度のレベルでのベタな「政治」ということだが、その外部に居て政治的に行動する必要がある。


「指導者や政府だけに任せない」ということは、自分たちが政府や指導者を支えるものとして参画して働く、ということではないはずだ。少なくとも、そんなことは稀にしか起こらない。
われわれは、指導者や政府・権力との同一化を拒否して、その実行を監視し、批判したり働きかけていく義務を負っている。それが、「指導者や政府だけに任せない」ということの、真の意味だ。
その義務は、無論、この国家や国際的権力といかようにも同一化しようのない他者に対して、われわれが負うのである。
このことは、先に書いたエントリーに関係するだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090811/p1


「平和宣言」の引用した部分の文章に欠けていると思うのは、われわれが他者に対して負っているこの義務、自国や自国が属する世界的な秩序を、またあらゆる国家や資本・集団の権力を内側から監視し、批判・抵抗していくという義務の意識である。
この義務は、権力者の演説への「支持」や一見民主的とされる国民的・市民的な制度への「参加」を、ときには拒むという態度によってしか担保されないものなのだ。
われわれは、この支配的な機構の一部としてボランティア的に働くことを拒まなければならない。そのことによって、国家や権力に同一化しようとする欲望を忌避し続けねばならないのだ。それがどれほど、「平和」や「民主的な制度」や「安全な社会」や「環境保護」の実現を目指す機構だと思えても。


私は常に、制度や国家の外に、幾分かは自分の体を留めておかねばならない。
それは自分が属する制度や国家を監視し批判し、場合によってはそれと戦うという、倫理的な責任を果たすためである。