責められない自分

先週あたりから、NHK総合の深夜で、第二次大戦に従軍した元日本軍兵士の証言を集めた番組の放映が続いていて、10日深夜の番組も見た。
フィリピンの戦線で元中隊長であり、戦場で多くの部下を死なせたことが心の傷になって、戦後60年以上経った今日まで家の外にほとんど出ることなく過ごしてきた方の姿と言葉は、胸に迫るものがあった。


ところで、こうした番組を見るとき、日本軍の行動によって被害を受けた側(たとえば、フィリピンやビルマの農民など)の視点があまりに欠落していると感じるときがある。
元兵士の証言を見聞きして、「戦争の悲惨さ」は伝わってくるのだが、被害を受けた他人との関係のなかで、この人たちがどういう行動をする(強いられる)ことになったのかということが見えてこない。


こんなことを書くと、「では、あのように証言をしている人たちに、その侵略という行為の自覚を問い、責めることができるのか?」という反問があるだろう。
ぼくも、もし目の前にその人たちが居たら、とてもそのように問い、責めることはできない、と思う。


だが、そのように「責められない」自分は、責めないことによって一体誰をかばってるのか。
決して、目の前の元兵士たちをかばってるわけではない。
それは、「この関係の空気を壊したくない」と思う、自分の気持ちをかばっているだけである。
つまり、すべては「自分可愛さ」である。
元兵士の人自身の存在(生)は、そこではまったく問題にされていない。