組織論と事実性

見た人も多いだろうが、この三日間、NHKスペシャルで「日本海軍 400時間の証言」という番組をやっている。
戦時中に海軍の将校だった人たちが戦後だいぶ立ってから行った「反省会」というものの録音をもとに、当時のことを検証するという内容で、一回目はたしか開戦に至るまでのこと(違ったかも?)、二回目はいわゆる「特攻」が行われた背景について検証されていた。


このうち特攻については、「若者たちが自分の意志でおこなったもので、命令(強制)によるものではなかった」と主張することによって、「人道に対する罪」に問われることを免れようとする姑息な手段が、軍令部の将校たちによって講じられていたことも紹介されていた。軍隊の中で兵士の自由意志などが通るのか、命令が出て「お国のために散ってきます」と行って出撃するのを見送ったのなら、それが命令したこと、死を強制したことに他ならないではないか、と思ったが、それはここで書きたいことではない。


この特攻について、番組では、個人が自分の意見(「特攻という戦法は間違っている」)を言えないような空気に海軍という組織が支配されていたことが問題とされていた。
また開戦への過程の検証では、予算獲得など、組織のなかでの自分たちの利益、役割ということしか眼中になく、縦割りの思考回路のなかで大局を見失った毛結果が、愚かな戦争の開始を招いた、というような話であった。
いずれにせよ、組織の問題、弊害というものが強調されて、番組の最後に、それは「私たち」現在の日本社会にも共通する弊害である、というように締めくくられる。
こうした視点は、深夜に再放送されていた見応えのあるドキュメンタリーシリーズ「証言記録 兵士たちの戦争」にも共通するNHKの論調であるといえる。
いわば戦時だけに問題を限定せず、組織の論理によって人命が軽々しく扱われていくという日本の社会、とりわけ(軍を含む)官僚機構の構造的な問題を、「私たち」が生きる平時にも共通するものとして取り出し、批判しようとする。
これはこれで、重要な視点であるとは思う。


だが、とくに特攻について考えれば分かるが、戦争末期の、あるいは戦争に突き進んでいくあの状況のなかで、「戦争は無謀だ」とか「特攻は間違った作戦だ」と主張することは、当然なされるべきことではあろうが、容易なことではない。
そして、勇気と信念を持ってそう主張する個人が居たとしても(実際にそうした将校の居たことが紹介されていた)、それが現実の大勢に影響を与えることはないであろう。
真の問題は、そうした個人の勇気や誠意ではどうにもならないところまで状況が進んでしまったということなのであり、組織や個人が責任を問われるべきなのは、この状況そのものについてなのである。
要するに、この組織論的な検証・論調は、意図的かどうか、的を外しているのだ。


問題が、組織の構造という平時にも共通するものとして語られるとき、また同時にそのなかで個人が勇気や誠意を持って行動しうるか否かだけに焦点が当てられるとき、隠蔽されるのは、他国に対してこの国家が戦争を行ったということの事実性である。
同時に、(とりわけ)アジアの民衆に対して国家暴力の支持者、遂行者として関わった者としての、各人の倫理的な主体性のようなものである。


他者を考えないなら、国民である私は(原理上)国家や組織に対して被害者でありつつ、それを構成する主体でもある。つまり、ここには一種の同一性がある。これが言わば、平時と戦時に共通する構造的な議論というものである。
だが、私が国家の一員として戦争を仕掛けた相手の国の人から見るなら、つまり他者の存在を考えるなら、私はこの国家との同一性のなかにとどまっている限り、すなわち自分の国家による戦争暴力・戦争犯罪を告発する立場に立たない限り、国家と同じ資格において、ただ一面的に加害者であろう。
戦争という事実性(戦時の特異性)の隠蔽は、私が他者に向って負う責任によって、国家との間に緊張(非同一性)を持たざるを得なくなる(そのことこそが、真の倫理的な主体性を保証するのだが)という意識から、私を遠ざけるのである。


だから、このような組織論的な戦争の検証からもたらされる議論は、結局のところ、「愚かな戦争」や「無謀な戦争」をなぜ防げなかったか、ということでしかない。
本当はわれわれが自ら問うべきなのは、「勝てる(はずの)戦争」をしようとした責任であり、幸運にも敗北することによってより多くの他者を殺傷せずに済んだとはいえ、巨大な惨禍を他者にもたらしたわれわれの罪をどう見つめ、償うかということのはずである。