『グラン・トリノ』・その2

前回の記事へのTBなど、ありがとうございました。とくにTBでは貴重な視点をご教示いただき、ありがとうございます。
読んで考えるところがありましたので、お答えになるかどうか分かりませんが、少し『グラン・トリノ』についての感想を補足します。


この映画で描かれるモン族の人たちは、大きく三つのグループに分けられると思う。
第一は、主人公の少年とその姉。このうち、姉については、はじめから主人公にとって大変好ましい人物として描かれる。大きな理由は、英語を流暢に話し、アメリカ的な考えに馴染んでいるからだと思われる。一方少年は、はじめはつかみどころのない、暴力的ではないがどこか柔和で軟弱な印象に描かれ、強いられるままに盗みまで犯そうとするが、はじめから対話を拒むというタイプではなく、主人公の指導を受けるに従い次第にマッチョで精悍な「アメリカの青年」という印象に変貌していく。
結局最終的には、この二人とも、典型的な東洋系アメリカ人の好青年、性的な意味でももっとも望ましい雰囲気をもった若者たち、としてスクリーンに登場する。そんなふうに感じられる。


第二のグループは、この姉弟の家族をはじめとした主に大人たち。この人たちは、おおむね英語が話せず、イーストウッド演じる老人と深い交流をするということはない。はじめは神秘的というか、閉鎖的にも見えているが、主人公が歩み寄る態度を示すと、一気に打ち解ける。
要するに、主人公にとっては、ものめずらしく、当たりも柔らかく、まことに邪魔にならない人たちである。


三番目のグループは、悪ガキたち。この子たちの風貌は、戦前からのコミックや政府のプロパガンダに出てくる「怖い東洋人」のイメージをなぞってるようにも思える。実際にそういう雰囲気の若者たちが居るということかもしれないが、問題は、この人たちの内面や事情、論理といったものがまったく描かれないことである。
彼らは英語を話すのだが、老人にとって、そのことは意味を持たない。彼らについては、「どうやって排除するか」だけが問題なのだ。


これら三つのタイプは、古くからのアメリカの通俗的な東洋人像の、三つのタイプをなぞっているとはいえないだろうか。
老人が、自分たちの社会のメンバーとして受け入れるのは、最も好ましく理解可能に思える第一のグループ(姉弟)だとも思える。ただし、主人公の教化に従う限りでだが。
第二のグループについては、排除するわけではないが、敵対しない、文句を言わない、訪ねればそれなりに打ち解ける、といった条件付きで町に住むことが許されているかのようだ。というか、それ以外のものとして描かれることはない。
第三のグループについては、上に述べたとおり。たんに暴力的で敵対しているというだけでなく、映画において深く描かれるということは、これもほとんどなく、あくまで恐怖と排除の対象だ。


結局、この他者についての、伝統的とも思える三つの類型を、この映画は再生産してるように思える。
これが、この映画がアメリカという国の枠組みを越えていないと思う、大きな理由、見やすい例である。
この映画には、過去のイーストウッドの作品と同様にさまざまな移民やマイノリティが登場するが、それは上のような一種の選別、アメリカという社会に入るための資格審査と振り分けを受けた後の姿であると、思われるのだ。
ただし、過去の同監督の作品のすべてにも同様の批判があてはまるかどうかは、保留する。


付言すると、似た例として思い浮かぶのは、ミハルコフの『十二人の怒れる男』だ。あそこでは、チェチェン人の像が、理解不能なテロリスト(レジスタンス)たちと、ロシア人である老人の庇護を受け入れる少年とに、きれいに分けられていた。
このイーストウッドの映画は、そこまで露骨ではないが、やはりひとつの国家的な論理の枠を踏襲してしまっているように思える。
ところで、日本映画についてはどうだろう?