『グラン・トリノ』

若い頃朝鮮戦争で多くの人を残虐に殺したという経験が深い傷になっている老人を、イーストウッド自身が演じている。


主人公が最後に行う選択は、個人の心理・生き方としては、ひとつの強いメッセージになっていると思う。
しかし、やはりあらためて思ったのは、イーストウッドには、アメリカの社会のあり方とか価値観を疑うというスタンスは、基本的にない。その限界がはっきり分かる作品ではないかと思う。
主人公が朝鮮の戦場で経た体験を日常に戻ってから語れなかったということが、息子たちとの齟齬の経験にもなってるのだと思うが、それを語らせなかったアメリカの社会のあり方のようなものが、表面だって批判されることはない。
あの結末で、そういうものが否定され乗り越えられているという見方もあるかも知れないけど、やはりあれは、個人の生き方の美学とか倫理観の問題で終わってしまってるように思う。


モン族の若者タオが、主人公の指導でだんだんマッチョ的な感じに変貌していくのは、アメリカ社会の伝統的な価値観に適合していってるわけで、代償に失ってるものもあるはずだが、それは生きていくためには仕方ないわけだろうが、それが「仕方ない」という社会であることは疑われない。
こういう映画を作る人だというのはよく知ってるけど、やっぱりああいうところは、とても付いていけない。
タオの変貌(成長)は、結局は本人がそれを肯定的にとらえてるのなら最終的にはいいんだろうけど(そもそも、そういう問いかけのある映画ではない)、あの銃を撃ちまくったり平気でレイプしたりする極悪ガキ連中にしたって、あそこまでになっていくのは、主人公に残酷な行動の記憶や、過酷な沈黙を強いてきたようなアメリカの社会の根本的なあり方にもひとつの原因があるはずなのに、そのアメリカ自体は結局は肯定されてるというか、現実の仕組みとしては無傷なままに終わっているというのが、この映画ではないかと思う。


しかしまあ、これだけ考えさせるということが、それ自体で大変立派なことだ。
日中戦争で中国人を殺した心の傷が・・」というふうなテーマで日本映画のヒット作が作られることはないもの。
そして、イーストウッドは、たしかに彼なりに、自分が信じてきた価値観のなかで、ひとつの答えの方向を(間違っているかもしれないが)切り開いて残そうとしている。そういうことは言えるのだろうと思う。
後は、これをぼくらがどう受け止めていくかという問題である。