『その名にちなんで』を見て

この映画の公式サイトはこちら(ぼくのPCでは見れません)。
http://movies.foxjapan.com/sononani-chinande/


導入部の筋書きはこちらなどで。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=328122


エンタテインメント作品でも、いわゆる芸術的な映画でも、作品全体を見終わったときに、それをひとつの塊みたいにとらえて、「いい作品だった」とか「面白い映画だった」と言ったりするのが、映画に対する普通の解釈だろう。
この映画の場合、全体としてみると退屈な印象がぬぐえないのだが、いくつかの場面で「人生の真実」と呼べそうなものがきめ細やかに描かれているとも感じられる。
見終わって、不思議な気分を残す映画である。
(以下、ネタバレ)


タイトルにあるように、70年代にインドのコルカタカルカッタ)からアメリカに移住してきた夫婦の間に生まれた息子は、「ゴーゴリ」という奇妙な名前(もちろん、ロシアの文豪の姓?だ)を付けられることになる。
息子は、自分のこの名前が原因でいじめられたり、大人になってからもからかわれたり、どうにも気に入らない。また、一度カルカッタの実家に家族と里帰りの旅を経験して以後は、別の意味でも(つまり、インドと何の関係もない名だという意味でも)、自分のこの奇妙な名に居心地の悪さを感じてるようでもある。
ちなみに、インドといっても、カルカッタベンガル)の出身であるこの息子の勉強部屋にはチャンドラ・ボースのピンナップがさりげなく飾られてたりする。


それはともかく、父親はそんな息子に、この命名の具体的な由来をずっと隠しているのだが、映画の後半になって、ようやく打ち明ける。
そう聞くと、この映画の筋の要点は、自分(主人公)の奇妙な名の由来をめぐる探求、種明かしということに思えるだろう。
ところが、映画のなかで父親が語るこの由来というのが、映画を見ている者にとっては、さして意外ではないものなのである。だからその場面には、どこか拍子抜けしてしまう感がある。
だが、たぶんこのことが、この映画の性格をよく表わしているのではないかと思う。
つまり、この映画が目指したものは、(主人公の)「名前の由来」についての謎解きに何らかの答え(解)を与えることではなかった、ということである。


ゴーゴリ」という名には、主人公の存在を世界(故郷、伝統、集団など)と結びつける必然的なものは何もない。
その名は、たしかに父親やその祖父が好んだ作家の名だが、それが命名の主たる理由でないことは、映画のなかでほのめかされている。
実はより深い命名の理由とは、彼が生れる数年前に父親が経験した旅行中の鉄道事故で、偶然同じ車両に乗り合わせた見知らぬ老人が、父親にアメリカ行きを勧めた直後に死亡し、一方父親は九死に一生を得た、というまさに偶然の(アクシデンタル)体験に由来するものなのだ。
自分(父親)にアメリカへの「旅」という人生を勧めてくれた見ず知らずの人は死に、自分はたまたま生き残った。その決定的な体験のときに読んでいた本の著者がゴーゴリだったのである。
とはいえ、その「出会い」を運命と感じる深い気持ちから息子に「ゴーゴリ」の名を与えたというわけでもないことは、映画を見ていればわかる。息子の名が「ゴーゴリ」になったのは、いくつかの偶然が重なった結果だったとしかいえないところがあるのだ。
ゴーゴリ」という名の由来は、どこまでいっても、主人公に世界との必然的なつながりを保証しない。


これは、グローバリゼーションが本格化した70年代以後の世界においては、人はそれまでのように世界や運命との必然的なつながりを確認しながら生きていくということが困難になったという状況のたとえになっているように思える。
たとえば、アメリカに移住した両親の間に生まれた息子(やその妹)は、ベンガルの言葉を理解できない。同胞の共同体のなかだけで生きていくことは、この息子にとっても、しがらみとしか感じられていない。
いまや、「名の由来」を知ることによって、自分の同一性を確定させ、世界と過去のなかに安定した自分の存在を確保することは出来ない時代になった。


だが、ここが大事な点だが、そのことは、その人の固有の人生の身体性や、その背景をなす「帰属」の意味が、その重要さを失ったということではない。
なぜなら、「名の由来」の意義(世界との紐帯)は失われたが、名そのものは存在しているからである。この偶然の賜物に他ならない「名」が、さまざまな他人たちの思いと歴史を通して自分に与えられたという、具体的な事実だけを拠り所として、個々の人間が、それぞれに自分の「ルーツ」や「家族」や「関係性」「集団」「民族」「宗教」等々の意味を、また同時に「隣人」や「他者」の意味、そして「歴史」というものを手探っていくのである。
いまや、それぞれの個別性から出発するしかなくなった、その世界との出会いのあり方、もしくは重なり合いのあり方を、この映画は繊細にスクリーンの上に描き出していくのだ。
それは、「名の由来」という形で、社会や人生についてのある一般的な回答を観客に提示しようとする立場ではなく、グローバリゼーションとも呼ばれる現実の状況のなかに置かれたさまざまな個々の生の、その世界(他人たちの身体)への「手探り」の様を、その具体性のままに描いていこうとする姿勢のようにも思える。


たとえばそれは、主人公のゴーゴリが、急死した父親のインド式の葬式への参加を希望する非インド人(ヨーロッパ系)の恋人の申し出を拒絶する場面などにも見て取れる。
「これは身内の儀式だから」と拒むゴーゴリに、恋人の女性は「私は身内じゃないの?私たち家族はあなたを身内のように扱ってきたのに」というふうに反問する。
息子は、それまで自分の家族を拒み、インド的なものから身を引き離そうとしてきた自分自身への後悔から、「インド式の葬式」に拘るのである。そこに参加したいという非インド人の恋人を拒絶するとき、それはたしかにひとつの排除だが、ここで見落としてはいけないことは、この息子自身も、このときそれまでの自分自身を「排除」しようとする苦痛のなかにある、ということだろう。
ここには、個々の人間の身体が置かれている現実の世界の苛酷な非対称性が、つまり、ある人たちにとっては、自分の身を引き裂き、愛する者を排除することでしか自分の人生を生きとおせないような現実があるということが描かれているのだ。
この映画の目線は、人々の生の、そういう具体的なあり方に届こうとしているように思える。


あらためて、「ゴーゴリ」という名の「由来」に関して言えば、むしろ映画の中ほどで、父親が主人公に謎をかけるように語る「われわれは皆、ゴーゴリの『外套』から出てきた」という、ドストエフスキーの有名な言葉こそ重要だろう。
後藤明生によれば、ゴーゴリの文学は、人間がもはや世界のなかに根拠を見出しえなくなった時代の始まりを画するものであるという。
それは、「伝統」やさまざまな「帰属」との必然的な結びつきのなかに住み続けることができなくなった人間の不幸を意味しているともいえるが、同時に、世界(他人たち)とのつながりを自らの手で見いだし紡ぎなおす機会を、われわれ個々の身体が獲得した(取り戻した)ということでもあるのではないだろうか。
世界とわれわれとのつながりが、究極的には偶然的でしかありえないという「近代」の(したがってグローバリゼーションの)真実は、だから人々の身体(の解放)にとっては、きっとひとつの希望の光なのである。