『潜水服は蝶の夢を見る』

梅田ガーデンシネマで見る。
かなり話題になっている作品なので内容はあまり説明しなくていいかと思うが、突然の発作により左目以外の全身が麻痺してしまった元有名ファッション誌の編集長の男性が、ある方法によって(もちろん看護者の協力を得て)言葉を伝え、自伝を書いて出版したという実話を映画にしたものである。
特別いい映画ではないのだが、題材が題材だけに考えさせられるところはあった。


思ったことだけを書こう。
ひとつは、「欲望」とはどういうものか、ということについてである。
映画のはじめのほうで、主人公が美しい女性の看護者を前にして(性的な働きかけが)「何もできなくて残念だ」というふうにモノローグをする場面がある(これらのシーンのユーモア自体は嫌いではない)。
この場面に限らず、この映画ではわれわれが日常の生活で抱いているさまざまな欲望の(実現の)可能性を、主人公が「失った」というふうに描かれている。夢の中でご馳走を食べたり、旅行をしたり、美女と抱き合ったり、そういったことが想像のなかで描かれるのは、この「喪失」という観点から物語が描かれていることを示している。
だが、考えてみると、上のようなシーンでわれわれが他人に対してなんらかの深い感情を持つことがあるとすると(無論、持たなくてもよいが)、そこには性的な欲望はそもそも不要ではないか、という気がする。
これは「セクハラ」とか、そういうことではない。
「性欲」も不要だし、「感謝」とか「生きがい」とかそういったことも不要であって、もっと本質的な関係性がほんとうはそこで求められているのではないか。
そこでは、「性欲」とか「感謝」というような社会的な欲望の装置というのは、どちらかというとわれわれの邪魔をしているのかもしれない、ということである。
となると、この主人公は、その意味では必ずしも何かを「失った」というわけではない。むしろ、「失っている」「遠ざけられている」のは、ぼくたちの日常の方ではないか。


この映画で、どうにも引っ掛かりがあるのは、主人公が社会のなかで特権的な地位を得ていて、それゆえに高度な医療を受けていること。それは実話だから仕方ないのだが、物語の視点が要するに、ここまでの主人公の人生と(彼を豊かにした)「この世界」の全肯定になっている。肯定されているのは、言うまでもなく、映画を見ている観客の(おおむね資本主義的な)日常なのである。


たとえば、現在の科学技術では、この主人公のような症状の人にも、「サイボーグ技術」と呼ばれる方法によって、意思の伝達や事物を動かしたりする可能性が開かれつつあるということも聞く。
それが可能になれば、きっと素晴らしいことであろうと思う。
だが、仮にそうなったとしても、われわれが忘れるべきでない事柄がある。
それは、いま現在この世界には、「自分の意志・意識を他人や外の世界に伝えられる人」と「そうではない人」とがいるという事実である。この「そうではない人」の意志や意識は、(今のところ)決してわれわれに伝えられることはないが、それでもその人たちの内的な世界は、何らかの仕方で実在している。
この、われわれがその意志を推し量ることもかなわないような人たち、にも関わらず間違いなく存在している人たちの存在を組み込んだ形で、われわれの社会とわれわれの生を構想し、作り変えていくという姿勢。
これが、われわれが失ってはならない、持たなければならない基本的な姿勢であろうと思う。
それは「サイボーグ技術」の発展とは、まったく別種の課題である。


付記

「欲望」については、少し書き足りないところがあった。たとえば、主人公のような状態になって、かりに出版した本がベストセラーになったとしても、それでどんな物欲が満たされるというわけでもなかろう、というふうにぼくらは思ってしまう。だが、そういうものではないだろうということである。つまり、人間の欲望は、いい意味で多様ではかり知れないところがあるかも知れない、ということだ。