『サウルの息子』

映画『サウルの息子』を見た。
http://www.finefilms.co.jp/saul/


僕は、この映画はよく分らないところがあり、見た後で関連情報を検索して調べてみた。
町山智浩さんの記事や発言、また監督自身へのインタビューが、たいへん参考になった。
http://miyearnzzlabo.com/archives/35192
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20160126


http://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2016/01/post-4411.php


さて、正直なところ、僕はこの映画には、いまいち入って行けなかった。
それはどうしてだろうか?
話題になっているカメラワークだが、主人公や彼の周囲の人物、事象にだけ焦点を合わせ、背景をぼかすという手法は、監督自身も言うように、一見すると、徹底して主観的であるように見える。
たしかに、極限状況に置かれて「心を閉ざして生きる」しかない人の心象風景を描いているという意味では、主観的だ。
だが、それは誰の主観だろうか?もし主人公の目線ということであれば、そこに主人公自身の顔や姿が映し出されるはずはない。
つまり、主人公は主観(主体)のように見えて、実際には客体であり、主観(カメラ)はあくまで別の誰かの眼差しだということになる(今なら「自撮り」ということもあるが、その場合でも、そこにカメラという媒介があることは変わらないだろう)。
僕はどうも、この眼差しの方が気になってしまう。
「ほんとは、そこにカメラあるやん」と言いたくなるわけだ。
だが、それを言ってしまっては、この映像の手法に素直にハマり込めなくなる。
それが、ぼくがどうもこの映画に入って行けなかった理由だろう。
「嘘だ」と言いたいわけではない。嘘だといえば、どんな映画も嘘なのだ。
ただ、嘘のタイプが、僕が馴染んできたものとは違うのだ。残念ながら、ちょっとそこに付いていけなかった。
重要な映画であることは、間違いないのだが。


実際、映画を見ながら、とくに不思議にも入りこめた場面では、「この(カメラの)眼差しの主は誰なのか」と考えていた。
それを考えさせるところが、僕にとっては、この映画のたいへん面白いところだった。
そうした場面は、収容所の中ではなく、むしろ特に、脱走に成功してからラストまでの部分だった。あの最終部分では、「嘘」の質が変わり、僕がより馴染んでいる、よく構成されたフィクションのような展開になっていたと思う。


このカメラワーク(眼差し)だが、考えてみると、夢の中で自分の行動を見ている時のそれに近い。
つまり、夢見る者の視線、夢の中に居て自分の行動を見つめている主観の視線なのだ。
実際この映画では、主観的なものと客観的なもの、想像的な領域と現実的な出来事との位置関係が転倒している。独特のカメラワークが示しているのは、そのことではないかと思う。
だから主人公は、「息子」(これ自体思いこみなのだが)を正しく埋葬するという宗教的な行為を、脱出計画の遂行という現実の行動よりもリアルなものだと思うようになる。
世界に真に働きかけることが出来るのは、現実的な行為によってではなく、宗教的で想像的な儀式の遂行だけなのである。
僕はこれは、一面においては、呪術的な世界観と言ってよいものではないかと思う。それは、現代社会において僕たちが感じている、世界や他者との隔たりの実感に重なるものだろう。
上記のインタビューの中で、監督は、ホロコーストの犠牲者である自分の祖父母のことに触れ、しかし今を生きる自分には、その事柄をどう捉えるのかは難しいという意味のことを語っていた。
時間の経過ということだけではなく、経験を構成する骨組のようなものが失われてしまった現代の社会を生きることの困難さが、そこでは語られているのではないだろうか。
この映画は、歴史を題材とし、また信仰や伝統に深く言及しているのだが、それらはどこか、再帰的にしか見いだされないものではないかと思える。
その、世界や歴史や他者から切り離されて閉塞した、今日的な意識のあり方を、あのカメラワークは直截に表現しているのだ(絶望的な状況下での「現実世界からの撤退」というモチーフは、ユダヤ神秘主義現代社会の感性に共通したものにも思える)。


だが同時に、現実の行為よりも他者(想像的に見いだされた「息子」)との宗教的な関係性、いわば「約束」の方を重視する主人公の姿は、極限状況に置かれた人間にとっての「祈り」が持つ力の可能性にも触れているのではないか。
この映画が、とくに大きな意味を持つと思うのは、そこなのである。
その「祈り」の可能性が展開されていると思えるのが、上に述べた最終部分だ。
圧倒的な無力と絶望のなかで、かろうじて守りぬかれた「祈り」の力、そして伝承への願いのようなものが、そこでは、呪術的な、転倒し閉塞した空間を越えて、より広い場所につながろうとしているように、僕には思えた。