スタンドアップ

例によって、公開最終日に見に行った。
未見の方は、お住まいの地域でやはり上映が終わってたら、DVDなどで見てください。

http://wwws.warnerbros.co.jp/standup/


原題は『ノース カントリー』。
80年代末のアメリカ合衆国の鉱山を舞台に、職場での壮絶な性差別と性的迫害に立ち向かう女性の姿を描く。
主演は、『モンスター』のシャーリーズ・セロン。監督は、ぼくは見ていないが『クジラの島の少女』という作品を撮った、ニュージーランド出身の女性ニキ・カーロという人だ。


主人公のジョージー(セロン)は、結婚して二人の子どもがあったが、夫の暴力に耐えかねて離婚し郷里であるミネソタの鉱山町に戻ってくる。父親も鉱山で働いている。保守的な環境で暮らす両親も町の人たちも、戻ってきたジョージーには冷たい。
生活費を自分で稼いで子どもたちと暮らすため、ジョージーは鉱山で働くことを決意する。しかし、会社も鉱山労働者たちも、そして組合も、女性の労働者に対しては徹底した侮蔑しかしめさず、そんな周囲への抵抗をやめないロージーは、たびかさなる激しい嫌がらせと露骨な性的迫害を受けるようになる。
やがて、会社の上層部への直訴も退けられた彼女は、報復と孤立を覚悟で法廷での闘争を選択していく。
弁護士でもある男性の友人に法廷闘争を反対され、「君ほどの魅力があるのに、なぜこんな職場で働くことにこだわるのだ」と問われたジョージーが、「自分の力で、自分と子どもたちを養いたい。これは、女性全部の問題なの」と答える場面がたいへん重要なのだと思う。
日本でのタイトル『スタンドアップ』は、ラストの法廷シーンでの、「弱い者が強い者にやられているのを見たら、一人でも立ち上がれ。立ち上がって、まず声をあげろ。」という台詞から来ている。


このようにたいへん力強い映画だが、ぼくには不満も残った。
まず、この作品に限らず今のアメリカ映画で「自分の力で、自分を養う」というイデオロギーを強調されると、「新自由主義」という言葉がすぐ思い出されてしまうということ。
こういう感想を持つのは、ひとつには「これは、女性全部の問題」であるという、そこのリアリティが、ぼくには分かっていないからでもあるだろう。「自分を養う」ということが、義務ではなく権利として認められていない人たち(つまり女性たち)が、社会のなかにいるということが、はっきり理解できていないのかもしれない。


それと、「自分の力で、自分を養う」というのは、合衆国の伝統的な価値観の表明であって、現在、特にレーガン政権以後ぐらいの合衆国の支配的なイデオロギーや行政の思想(つまり、ネオリベ的なもの)にだけ結びつくのではない、という反論もあろう。
だが、ここのところが本当に分離できるのかどうかは、ちょっと微妙だ。
「女性が自分らしく社会的に生きる権利」ということを別にすると、アメリカの思想的伝統としての「自立の精神」みたいなものは、どうも胡散臭い気がする。それは資本とか(開拓時代以来の)アメリカ合衆国という国家のあり方にとって、都合がいいだけではないのか?


そのことは、この映画に関係ないようだが、そうでもない。
ぼくがどうもひっかかるのは、ジョージーが男だらけの組合の大会で、抵抗を貫くための演説を行おうとする場面だ。ここでは、満場のブーイングにもかかわらず、発言を求めるジョージーに司会役の男性がすんなりマイクを渡し、さらに言葉につまった彼女に助け舟を出すのは、それまでは「男の職場」に踏み込んできた娘と反目していたジョージーの父親である。そして、「私が本当に誇れるのは、この娘だけだ」という父親のスピーチに「兄弟」と呼ばれる組合員の男たちの多くは賞賛と同意の拍手を送る。
どうもここでは、父親を中心にしたアメリカ的な家族主義と、そして企業と一体になってアメリカの資本制経済を支えてきたアメリカ的な組合主義というものとが、確認され賛美されているという印象を受けた。
それから、最後に法廷で決着がつくわけだけども、これもアメリカ的な「司法の正義」の正当性の確認、ということではないだろうか。
結局、こうしたアメリカ社会の保守的・支配的なシステムへの信頼は、無傷のまま残されることになっている。


こうしたことはハリウッド映画という枠がある以上仕方ないのかもしれないが、ぼくには不満だった。
ぼくの場合、同じ「家族間の和解」でも、ジョージーと息子との関係の挿話のほうに心をひかれる。
法廷では、最終的に学生の頃からのジョージーの性的な素行が問題にされ(「法廷は鉱山よりひどいぞ」という弁護士の忠告は辛らつだ)、そのなかで彼女の息子が教師にレイプされたことで生まれたのだという事実が明らかにされる。そのことは、それまで息子には秘密にされており、父親は軍で死んだのだということにされていたのだ。
事実を知った息子は大きなショックを受けるが、ジョージーの友人の説得を受けるうち、次第にその事実を受け入れていくと共に、母親のこれまでの人生を見つめなおし、その生き方を肯定するようになる。その息子に向ってジョージーは、レイプによって身ごもった子どもである彼の存在を、妊娠当初は受け入れられなかったと告白し、やがてそれを受け入れるようになるまでの心の変容を語る。
この母と子の対話と和解の場面に託されているのは、お互いを他者として認め、苦しみを越えて受容しあうという関係ではないだろうか。ここには、同一的に固定され再生産される権力関係としての「家族」とは別の、ある関係のあり方が提示されているように感じた。


最後に、シャーリーズ・セロンだが、『モンスター』の時には役作りで十数キロも太ったということだったが、今回は完全にもとの体型に戻していて、それ自体すごいことだと思った。
ただ、どうもぼくはこの女優には点が辛いのか、『モンスター』でも共演のクリスティーナ・リッチのほうがずっといいと思ったが、



今回も主人公の友人の女性グローリーを演じたフランシス・マクドーマンドの方が印象的だった。
まあこの映画のシャーリーズ・セロンは、たしかに「魅力的」ではあるんだけど。演技をちゃんと見れていないということだろうか?