皐月賞のオッズについて

さきの日曜日に行われた皐月賞は、一番人気のロジユニヴァースが大敗するなど波乱の結果となったが、この日の日刊スポーツに、黒鉄ヒロシが予想を書いた後に、「しかし胸騒ぎがする。こういう堅いと思われるときほど荒れるものだ。」というようなことを書いていた。
それを読んだとき、その感じが分からないではなかったが、言葉に出来ずにいた。今日、そのことの一つの説明を思いついたので、書いてみる。


それはオッズの数字から感じられる不自然さとして、理解できるのではないか。
端的に言うと、ロジユニヴァース単勝オッズが低すぎる(支持率が高すぎる)と、ぼくには思えたのである。
レースの前日から、あの馬の単勝オッズは二倍を切り、1・8倍ぐらいをつけていた。競馬ファンなら、ほぼ誰もがあの馬が勝つ可能性が最も高いと考えるであろうが、それにしてもあの数字は、実際に対戦したことのない馬が多く居たこと等を考えても、直観的に不自然(オッズが低すぎる)と感じられるものだった。


競馬の予想は、結果が不確実だということを前提にしている。
結果が確実に予想できるなら、そもそもギャンブルとして成立しないだろう。
みんな、(本当は)不確実だということを前提にしたうえで、さまざまなファクターから、一番起きる確率の高そうな結果に当てはまる馬券を買ってるわけである。


そこで、出てくるオッズというものは、客観的な分析等による予想の数値に、不確実性を加味したものになるはずだ。
つまり、一番人気の馬であっても、「力相応」よりは、少し高め(支持率が低め)の数値になっておかしくないのである。
これは、どのぐらいが自然で、どのぐらいが不自然かというのは、その都度直観的にしか言えないけれど、明らかに不自然さを感じさせる場合というものがある。それは、今回そうであったように、「最も確率が高そうなところに、過剰に支持が集まる」という傾向となって現れるのだ。


なぜこれが起きるかというと、ここが肝心なところだが、馬券を買っている人の心理として、つまり馬券を買ってお金を増やしたいと(切実に)思ってる人の心理として、データを客観的に熟慮して得た感触に「不安」が感じられるときほど、「一番高い確率」と思われるものに依拠したい、つまりは(予想の前提となっているはずの)「不確実性」への感覚・自覚というものを抑圧したい、という気持ちが働くようなのである。
その結果が、一番人気の馬や(連勝式などの)組み合わせに対する、過剰な、一本かぶりの支持となってあらわれる。
すなわち、勝つ確率が一番高いと思われる馬や組み合わせに過剰に支持が集まっているということは、逆にその分析にどこか無理があると直観している人が多いという証拠であり、黒鉄氏のような熟練の人は、それを見て過去の経験から「胸騒ぎ」を覚えた、ということではないか。


やや一般化して言えば、人は、ある(生活に関わるような)切実さをもちながら、「不安」をひそかに感じているときほど、本当は確実でないと思っている(前提している)はずの根拠に、盲目的なまでにしがみつこうとするもののようである。
それは、自分が普段その上に立って行動しているはずの、現実の「不確実性」に対する感覚への抑圧の衝動となってあらわれる。
そのような気配が人々の間に感じられるなら、それは何らかの危機の兆候、少なくとも大きな不安の表出である、ということだろう。


そして、ぼくの経験から言うと、こうした「不確実性」の感覚への抑圧は、その人の「切実さ」、良い結果を得たいという切迫感が強いときほど、なおいっそう強く働き、直観にもとづく的確な判断力を鈍らせるものである。
ぼくが当日、ロジユニヴァースから馬券を買ったことは、言うまでもない。