情緒の目

ハーヴェイ・ミルク』のなかに、ひとつ印象的な箇所がある。
ミルクの友人でもあったゲイの男性が、ゲイの人たちの排除を法制化しようとした保守派の政治家の戦略を回想して、「本人はお調子者に過ぎないが、周りのブレーンは頭がいい」と語るところだ。


それは、この法案がゲイの教師の排除を目的としていたことを指している。
「親は自分の子どものことになると、冷静ではいられなくなる」と言い、この政治家のブレーンたちはその親に照準を合わせて訴えかけ、同性愛者の排除の法制化という政治目的を果たそうと狙ったことをとりあげて、「頭がいい」と語っているのだ。


この言葉は、この証言者の男性が、重要なのは「人が冷静ではいられなくなる」領域であること、理性の言葉が説得力を持たない領域だという認識を持っていることを示してると思う。
人は時として、理性の言葉を聞かず、不確かな情報のなかで、恐怖や不安の感情に駆られて行動する場合がある。それは「過剰反応」とか「ヒステリー」という風にもいわれる。
その感情は多くの場合、方向(対象)を見誤っているけれども、恐怖や不安を感じているということ自体が誤っているとは限らない。パニックや動揺のなかで、人は生きていくうえでの大事なものが危機にさらされていることを直観し、そのことに対する漠然とした不安や怒りを、あいまいな認識のまま、示された対象に差し向ける、ということではないかと思う。
この不安や怒り自体は、むしろ否定されてはならないものなのだ。


アメリカで新型インフルエンザの流行が始まった頃、ペイリンという政治家が、感染が心配なので公共交通機関は利用したくない、という発言をして、メディアや旅行業界などの猛反発を受けたことがあった。
彼女の言説は、たしかにパニックや偏見を助長し、混乱を引き起こすものだったかも知れない。
だが、彼女のこの発言が、ただちに否定され封じられた理由は、それだけではないだろう。それは、この言葉が、多くの人々がアメリカ社会のなかで感じている不安や怒りを顕在化させ、覚醒につながってしまう危険があると判断されたからではないか。


インフルエンザの広がりによる犠牲者の発生は、たしかにある程度は防げないものである。この不確実性をまったく否認し、リスクゼロという想定にしがみつこうとする社会は、いま日本が陥りつつあるような過剰な不安のなかに飲み込まれてしまうだろう。
だが問題は、この不確実性を認めたうえで社会の維持が図られる場合、何が守られ、誰が犠牲になるのか、ということである。
経済活動や都市機能の維持のために、インフルエンザの感染の拡大防止に十分な手を打たないこと、その脅威を低くアナウンスするということは、階層としては貧困層における死亡者・重症者の大きな発生を意味し、社会全体としては個々の生命や健康、とりわけ体力の弱い人たちのそれが危機にさらされることを意味するだろう。
アメリカのような社会では、とりわけこの傾向は強いだろう。そこでは、市場や都市生活のために、個々の人間の生命、とりわけ弱い立場の人たちのそれが犠牲になるということが、暗黙の論理とされている。
ペイリンの発言は、意図せずして、この論理の一端に触れていたのであり、それに対する怒りや不満を人々のなかに顕在化させる恐れがあった。だから、抑圧されねばならなかったのだ。


つまり、この情緒的な反応には、権力についての意図せざる洞察が含まれていたのである。
彼女が、その洞察の内容に正しく気づくことはないだろうが。
大事なのは、社会の不正を直観し、それに対して悲鳴や怒りの叫びをあげる、生身のこの情緒的な反応だ。
そしてこの情緒を、他者を排除するためではなく、逆に他者の生命を尊重し守るための基盤として、活用するということだろう。