パドックでの馬の見方

ついでにもうひとつ、競馬の話。
競馬場ではなんといっても、自分の目でパドックなどで馬を見て、馬券を買う馬を決めることをすすめたい。
「どこを見たらいいのか」という質問があるが、それが分かれば苦労しません。
ただ、こういう見方が出来る、というぐらいのことは言える。


一般的に言われるのは、一頭ずつを個別に見て判断する以前に、まずパドックの全体をパッと見て何かを感じとれ、ということである。
これはまあ(馬が群れを作る動物だという点は別にして)、分析的・記述的な判断よりも総合的・直観的な判断の方が大事だということで、勝負事とか動物・人間の観察は、すべからくこうしたことが言えるだろう。
だが、ことに現代のような社会に生きる人間は、経験的真理に基本的には分析的にしか接近できないものである。本当に総合的判断に重きを置いて行動できる程の人ならいいのだが、たいていは、総合的に判断してるつもりでも分析的な判断の枠組みから出られていない。
だから、分析的な判断・思考から逃れようとしても無駄であろう、と思うのである。
そこで、「全体をパッと見て何かを感じとれ」ということは、次のような意味にとっておけばよいと思う。
人間は主に分析的にしか物事を捉えられないが、しかし分析的思考だけでは決して完全な認識に達することは出来ない。そのことを忘れないための戒めである、ということだ。


まあ、というわけで、これは覚えおくといい言葉ではある。
ただ、凡人にはなかなか難しい(「ビギナーズ・ラック」というのは、これなんですな。)。


次に、競馬の世界には、「馬は縦に見ろ」という格言がある。
これは、ある馬を、パドックで一緒に歩いている周囲の馬と比較して、良い悪いと判断するのでなく、その馬(個体)自身の過去の状態と比べて判断せよ、ということである。
たとえば、普通は「入れ込み」といって、興奮してるような様子の馬は良い結果が出せないと言われるけど、性格によっては、そういう状態の時のほうが力が出せる奴も居る。
目の前の馬が、そうであるのかどうかは、(一般の観客には)それまでのレースのパドックを見て、「入れ込んで」た時の結果がどうで、「入れ込んで」なかった時の結果がどうだったかを知らないと、判断できないのである。
要するに、周りの他の馬と比べて判断するのでなく、その馬自体の過去と比較しながら、その馬の性格と体調を判断することが大事。
そういった教えである。


これもたしかに、非常に大きなポイントだといえる。
だが、なにぶん、そんな時間がとれるものではなかなかない。
それにこれも、やはり分析的・記述的な判断の一種だとは言える。つまり、それでいいんだけど、それが絶対化(無謬化)されて考えられると間違う、ということである。


さて、ここからが本論だが、この馬(個体)の性格と状態を直観的につかむということは、「縦に見る」という王道に拠らなくても出来る場合がある、ということである。


まず、同じ状態の同じ馬を見ていても、私の状態によって、見え方が全然違う。
自分の状態が悪い時には、「この馬は太っているなあ」と思うものでも、状態がいい時には、「堂々としてるなあ」と惚れ惚れしたりする。
後者の時の方が、馬券の成績は良い。
こうしたことは、スピノザが言ってる通りである。


そして、これは最近気づいたことだが、同じ(例えば)「入れ込んでる」という様子の馬であっても、体調が良くて入れ込んでるのと、状態が悪かったり良くない原因があって入れ込んでるのとは、見た時の直観的なイメージが違うのである。
これはまさに、総合的・直観的な判断で、どこがどう違うという風に言うのは難しいと思う。
比ゆ的に言えば、その様子が「輝いて見える」のだ。
そして、その様子に関わりなく、「輝いて」見えたときは、その個体の力が充溢しているということである。
とどのつまりは、これが最も大切なことだと思う。


客観的にどう見えようと、どう考えられようと、輝いて見える奴は、必ず強い。
もちろん、強い馬が勝つとは限らないのが競馬だが、これは現実は全てそういうものである。
「強い」(生命の力を有している)という反現実的な理念だけを追い続けるのが、競馬という営みの重要な一面ではあろうと思う。