日曜の番組から

日曜日に見た番組から二つ。


毎日放送深夜のドキュメンタリー、『映像09』では、今回は「内部告発」がテーマになっていた。
自分が勤めている企業や組織(警察)の不正を内部告発し、人事などで報復的な対処をされた、もしくは現在もされている人たちの姿。
(日本では)こうした人たちを支援したり救済する仕組みは、法制度においてもまったく整っていないという。そこで、これらの人たちは、多くの場合、孤立無援の戦いを強いられることになる。
職場をやめていくことが、もちろん会社・組織側の狙いでもあるが、生活もあるのだし、もちろん辞めなければならない謂れはないのだ。


運送会社(トナミ運輸)に勤めていたある人は、告発後、約30年にわたって「研修所」という名称の場所に送られて勤めることになり、それまでとはまったく違う雑草の草むしりなどをやらされることになった。そして、そのうちの16年間は、個室で一人きりで、電話もない机に向かって一日過ごすという毎日。
JRの日勤教育などを思い出したが、この年数はすごい。
ぼくならすぐに精神的におかしくなり、体調にも影響すると思う。
それでも職場を辞めないこの人の自宅に、辞めさせる目的で暴力団がやってきて、脅迫を行ったそうである。
一時は奥さんから離婚を迫られたりしたが、やがて理解が得られるようになった、とのこと。


まあ、一人ではちょっと耐えられないと思うし、また家庭があるからこそ辞めずに頑張ったということかも知れない。
そもそも内部告発を行うということが、尋常な決断ではないと思うが、それ以後の過酷な日々に耐えていく方が、もっと大変なことなのだろう。
愛媛県警内部告発して一時左遷されていた、別の当事者は、『自分は誰かに、内部告発をしろとは言えない。だが、せめて告発した人を支援していきたいと思う。』と語っていたが、現状ではそれほど大きなリスクが個人に負わされる社会である、ということだろう。
この人は、この報復的な異動の際の、警察の上司とのやりとり(対決)を録音したテープも紹介されていたが、答えに窮した上司が「あなたとは議論する必要がない」というようなことを何度も言ってたのが印象的だった。


また、今回中心的に紹介されていた西村さんという人は、三菱重工の社員であったが、不正を告発し、新聞の一面記事となった。その後、それまでの現場での仕事から一転して、会社の社宅の清掃などをさせられることになった。
報復と、辞めさせたいという意図があることは明らかだろう。
この人に関して印象的だったことのひとつは、自分がそういう状況にあるということを、子どもたちにはずっと隠していたが、番組の取材を機に、それを打ち明ける。
19歳になる息子さんは、むしろどうしてもっと早く言ってくれなかったのだと言い、それを聞いて父親を誇りに思う、という風な感想を言うと、西村さんは涙ぐむ。
ぼくは、息子の心境としては当然そうだろうと思ったが、西村さんは、そうは考えなかった。
同様に打ち明けられた娘さんが語っていたが、現場でバリバリ働いていると思っている子どもたちに、職場のなかで冷遇され孤立して、社宅の清掃という仕事に就かされている自分の姿を知らせたら、幻滅し失望するであろうという風に考えたようである。
ぼくの考えでは、そんなことよりも、内部告発を行って、さらに苛め的な対処にも屈せず戦い続ける父親の姿に対する尊敬の感情の方が強いだろうと思うのだが、ずっと企業の中で生きてきた人は、その部分の考え方が違うのかもしれない。
だからなおさら、内部告発に踏み切るには葛藤があったであろう。


この人の映像で凄いと思ったのは、最後のところで会社の前に一人で立ち、駅から出勤してくる人たちに向かって、マイクとスピーカーで、実状を訴えるスピーチを行う。
誰一人、足をとめて聞く人はなく、関わりになるのを避けるように通り過ぎていくが、凄いのは、その人波の来る方向にさかのぼる形で、マイクでしゃべりながら西村さんがどんどん歩いていく姿である。
路上で、しかも会社の前で、一人で立ってスピーチを行うということも、すごいと思うが、聞こうとする人がないと見るや、自分からその人波のなかへ進みながら語り続けるのである。
それは、自分の窮状とか真実とかを説明するというようなことではなく、西村さんの怒りの奔出のように見えた。
この怒りが、西村さんの行動を支えているのであろう。


番組の最後に、西村さんは、「自分はともかく、人と違う人生を生きることになった。」という風に語っていた。
取材者が、「それを無駄にせず、いい結果につなげたいですね」という風に聞くと、もちろん、そうしなくてはならないと思っている、と答えておられた。




以上は、日本の社会の話だが、もうひとつ、夕方に見たNHKの海外ネットワークのなかのエピソード。
金融危機で国の財政が破綻し、総選挙が行われたばかりのアイスランド
番組では、金融バブルのなかで為替ディーラーに転職して高い収入をあげたが、金融危機で職を失うことになった青年が紹介されていた。
先日、子どもの頃、アイスランドの鱈からとった肝油のドロップが好きだった、ということを書いたが、この人はまさにその鱈漁の漁師だった。
ディーラーに転職してからは収入が倍になり、アメリカとヨーロッパ製の車を買ったり、羽振りのいい暮らしをしていたが、今はすっかり困窮している。
この人の話が、印象的だった。


今思うと、自分は大きな賭けをしすぎたかも知れないと言い、また鱈漁に戻るしかないと考えているという彼は、『それでも金融システムは必要なものだと思う。ただし、人間のことを第一に考えるようなシステムに変えていく必要があるだろう。』という風に、最後に語っていた。
それを聞いて、こういう人には鱈をとることも、金融の仕事も、そう変わらないところがあるのだろうと思ったことと、最後の感想は、「大きな賭け」をした結果として体得された知恵のようなものではないかと感じられた。
その意味では、この人も、「人と違う人生を生きることになった」が、そのことを無駄にはしなかったのだと思う。



追記: 内部告発の番組のなかで、支援にあたっている弁護士が、「内部告発は個人の問題でなく、社会全体の利益のために行っている行為だから、社会がこれをサポートする枠組みを作っていないのはおかしい。」という意味のことを言っていた。
これは、論理としてはその通りだと思うが、ただぼくは、「個人の問題であってもいいじゃないか」とも思った。組織の枠に収まらない個人の怒りや情熱や正義感が、不正に対する内部告発という形で噴き出したということを、そこに「社会の利益」(社会正義)という媒介を入れなくても、無条件に支持していく。
そういう発想もあるべきではないか、と思う。
マイクとスピーカーを持って人波に向かっていく、西村さんの姿を見ていて、とくにそう感じたのだった。