『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

いつも見に行くのがすごく遅くて、この映画も上映が(大阪では)金曜までで終わってしまう。
情報にならなくて、どうもすみません。


http://www.chechen.jp/


ロシアの有名な監督、ソクーロフという人の新作。
チェチェン共和国内のロシア軍駐屯地を訪れたロシア人の老婦人の体験を描く。


この映画は、新聞の紹介記事を読むと、自分の意志で駐屯地の外に出たヒロインがチェチェンの人々と交流するということが話の中心みたいな印象を受けたけど、見てみるとそうではなく、大部分のストーリーは、駐屯地のなかで、ヒロインの孫である将校や、他の兵士たちとの関わりにおいて展開されるのであり、駐屯地の外の場面というのは、(重要だが)ひとつの挿話のようなものに過ぎない。
その駐屯地のなかの部分はおおむね重苦しく、何か物悲しい夢のなかのような感じであり、市場(バザール)や半ば廃墟と化した住居のなかでのチェチェンの人たちとの交流だけが、生き生きとしたものに描かれている。
これは、光線の感じなどを変え、意識的にそういうふうに撮っているのだろうと思う。


ロシアがチェチェンに対して行っている行為を特に批判するような要素が描かれることはない。
そうした描き方は、現在のロシアの映画界では、大変難しいのだろう。そもそもそれを映画のなかに書き込むことが出来ないか、出来てもそれを公開できないかの、どちらかではないか。
だがそうでなくても、この監督がそうした批判的な描き方をしたかどうかは、やや疑問である。
監督の関心は、それとはやや別のところにあるのだと思う。
そしてその監督の意図は、おおむね成功しているという印象を受けた。


ヒロインのアレクサンドラは、バザールで出会ったチェチェンの老婦人マリカと話をし、その家に訪ねていったりする。
マリカは、「あなたがたロシア人は、私たちとはまったく違う」と言い、アレクサンドラが、「自分のことが分からず、いつも何かを捜して待っている」というふうに返すと、「捜しつづけなさい」と答える。
また、マリカが、身内を戦争で失った自分の境遇を語って、「男たちは敵同士になるけど、私達はいつも姉妹よ」と語りかけると、アレクサンドラは「そんなに単純だと思うか」というふうに返す。
支配されることへの強い怒りを打ち明けるチェチェンの青年に、アレクサンドラは、「日本のある老女は、理性こそがもっとも重要だと言った」と語りかけるが、青年は答えずただ彼女の顔を見つめ続ける。
そして映画のラストでも、列車に乗って立ち去っていくアレクサンドラは手を振って別れの挨拶をするが、マリカはまったく別の方向を向いて遠ざかってしまう。さらに列車のなかのアレクサンドラも我に返って呆然と座り込むところが映って、映画が終わる。


要するにこの映画では、何か打ち消すことの出来ない荒廃や破壊や疲弊が、人々の身の上に起きたということだけが描かれている。観客が期待するような「和解」は、不可能なのだ。
その事実を描くことによって、根本的な批判が行われているのだと思う。
チェチェンの状況について、とりわけロシアが行ってきたことについて、この映画でとくに明示的に語られるということはないのだが、それでも人々を襲う現実に対する根本的な批判が、そこに密かに込められているのである。