チベットのことなど

民族や宗派間の対立とか、少数民族問題と呼ばれているものには、通時的な側面と、共時的な側面とがあるのだと思う。


ある集団が支配的な他の集団から抑圧や攻撃を受けてきた歴史は、多くの場合、その共同体の内部で伝承されるだろう。しかし、個人の生にとっては、それは必ずしも主要な要素(情報)ではない。
現実の社会のなかで抑圧を受けている人、とりわけ若い人たちにとっては、その抑圧は言うまでもなく、まずもって現在の抑圧、現在の差別、現在の暴力として感じられるのであり、その実感が、伝承される(過去の)物語・記憶によって強化される。
そういうことが起きるのではないかと思う。
しばしば、この「伝承」の面、つまり通時的な側面のみが強調され、「数千年にわたって続いてきた憎しみの応酬」のようなことが言われて、対立の解消の不可能がもっともらしく語られるのは、現在の、つまり共時的な暴力の構造というものを隠しておくための工夫に他ならない。
とすると、まず問題にされるべきは、この現在の抑圧や暴力が、どのような構造のなかで、どのような実態をもって、この人たちを襲っているか、ということである。


チベットで起きた「暴動」(ここでは、肯定的な意味でこの語を用いるが)と、それに対する中国政府の強圧的な行動・言動に対して、ロシアの外務省がいち早く指示を表明したとき、ぼくは戦前の日独伊三国同盟の復活をイメージした。
かつてナチス・ドイツ大日本帝国の利害が一致していたように、チベット問題を力で抑え込もうとする中国と、チェチェン等の問題を同様に「解決」し抹消さえしてしまおうとするロシアの利害とは、ある意味で一致している。
この「ある意味」とは、たんにいわゆる(通時的な)少数民族問題を抱える帝国的な大国という性格を指すのではない。
それは、かつての「日独伊」と同様に、ロシアや中国が、経済のグローバル化にもとづく新たな世界秩序のなかでの、「遅れてきた者」という位置にあることを指しているのだ。


現在の中国やロシアの少数民族問題は、中国やロシアが自由経済の仕組みのなかに参入したという共時的(同時代的)な条件のなかで生じている。
これらの国々は、世界の新たな秩序に遅れて参入し、その「遅れ」を取り戻そうとする焦りのなかで、権力をかさにきた強圧的な手段がとられることになる。


チベットの場合、中国政府の政策による(ダライ・ラマの言う)「文化的虐殺」ということだけでなく、流入してきた中国系の人たちのためにチベット人の若者たちは職に就くこともままならない状況であったという。
新たな経済秩序に強制的に巻き込まれたことによる困窮と、文化的なアイデンティティの剥奪、それが人々を追いつめ、共同体の伝承される(抑圧の)記憶との同一化へと、人々を向かわせる。
そこに、現実のなかで虐げられた者の怒りが、当然の権利として実力行使の形をとる。
チベットで起きていることの発端について、ぼくはそのように想像する。


これらの怒りと行動は無論、それ自体としてはまったく正当なものであるし、同時に事態を平和的に解決しようとするダライ・ラマの一貫した態度は賞賛するべきものである。
あくまで非難されるべきは、一切の対話を拒否したまま、暴力による解決と隠蔽を目指し続ける中国政府の態度だ。


ただし、ここで忘れてはならないのは、チベットチェチェンの人々がこうむっている悲惨が、われわれもそこに属している、この現在の世界の仕組みに由来するものだということである。
これは、今回のような問題に限らず、中国やロシアのような国家の「歪み」を批判する際に、誰もが必ず押さえておくべきことだと思う。
中国やロシアの体制は、たしかに批判されるべき点を多く持っているが、それらの国の国家体制は、いまやわれわれの社会や生活と無縁であったり、たんに敵対していたりするわけではないのである。
つまりわれわれは、これらの国々の蛮行を批判すると同時に、それらの行動の背後にある、われわれの国家や社会や生活をも、同様の眼差しで見るのでなくてはらない。
これは、現実に行使されている中国やロシアの行為(暴力)を免罪するということではなくて、その行為の罪悪性の本質を正確に見定めるということであり、そのことによって「われわれ自身を不当に免罪しない」ということでもある。


同様の態度は、かつての「日独伊」の犯罪行為の弾劾に関しても、当然とられるべきものだろう。
悪の根本は、特定の国家体制のなかにある以上に、(とりわけ現代では)このわれわれの世界の全体に巣食っているのだ。