『全体性と無限』享受と他者・犠牲・パコ

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)


前回、「享受」についてレヴィナスが言ってることへの理解を、次のように要約した。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20081106/p2

レヴィナスにとって、このことは「善い」ことである。

それは、「享受」というこのエゴイズムが、それ自体としては孤絶したものでありながら、他者とつながる条件でもあることを示している。

ひとは「享受すること」の孤独において、エゴイズムの中に閉じこもるのだが、まさにそのことによってこそ、一般的(全体的)な領域から分離され、他ならぬ「私」の、他者とのつながりの道が開かれる。

「私」の他者とのつながり(アソシエーション)の唯一の方途としての「エゴイズム」(享受)の重視こそ、レヴィナスの議論のポイントのひとつであろう。

とりあえず、レヴィナスの言ってることをこのように理解するとして、しかしでは、享受(エゴイズム)のなかに閉じこもっている人間は、いったいどのような原理によって(それにも関わらず)他者と出会い、つながることが可能であるというのか?
レヴィナスは、享受には、それ自身の不確定さに由来する不安の影のようなものがあり、それゆえに享受には亀裂が入っているのだという意味のことを言っているが、それがただちに「他者」の存在(への予感)に由来するものだということになると、閉じこもっている私はすでに他者を予期しているということになり、他者の「他性」は消えてしまうであろう。
他者との関わりについては、享受のあり方とはまったく別の次元のこととして語られねばならないのだ。


第2部C以降のところで、集中的に語られるのは、この問題である。

エゴイズム、享受、感受性、その他、内部性のいっさいの次元は――これらは分離の具体的な形である――、<無限なもの>の観念にとって不可欠である。つまり、分離された有限な存在を出発点として拓かれる<他者>との関係にあって、欠くことができないものなのでる。(p298)


だが、他者に対する私の<渇望>は、つまり他者に対する私のいわば「開け」は、こうした分離・享受を条件としてのみ起こりうるものであるとはいえ、そうした分離・享受から何らかの論理的(弁証法的)な道筋を経て生じてくるわけではない、とされる。
なぜなら、もしそうであるなら、(上にも述べたように)他者はもはや「他者」たりえないだろうから。


そこで、他者の「他性」を確保しつつ、享受のさなかで分離した私が他者に出会うとすれば、享受のあり方、享受とも呼ばれる分離された(閉じられた)人間の内部性のあり方そのものが、「開かれていると同時に閉じられて」いる、という両義的な性格を持っているはずだということになる。
実はこの点に、レヴィナスは、人間の享受と動物のそれとの差異を、もしくは享受という人間的な自足(存在への固執)のあり方と、動物的な自足(固執)との違いを、見い出しているようなのである。

快楽の坂をたどってこのように自己へと下降してゆくうちに異質な要素があらわれることで、内部性の次元がみずからの内部性を否認することはありえないとしても(このような下降だけが実際には内部性の次元を穿つのであるけれども)、にもかかわらずその下降のうちで或る衝突がおこらなければならない。その衝突によって内部化の運動が逆転して、内部的な実体の横糸が断ち切られることはないにしても、外部性との関係をふたたびとりむすぶ機会が与えられる。内部性は、閉ざされていると同時に開かれていなければならない。そのことによって確実に、動物的な条件から離陸する可能性がえがきとられるのである。(p300〜301 太字強調は引用者)


人間と動物との二項対立に疑問がないわけではないが、ここでは「動物的」という語を「(レヴィナスが論じる)人間的ではない内部性のあり方」ぐらいに解釈して、立ち入らないことにしよう。
問題は、この(人間の)享楽の両義的な性格を、どう考えるかだ。


ぼくの読み方が間違っていなければ、レヴィナスが着目するのは、(人間の)享受は不安にもとづく不確定さを根本的なものとして内包しているという点である。
言い換えれば、享受は、満足のうちに自足するというものでありながら、(それとは反するはずの)不安そのものをも欲望し、享受する。
これは、欲動のなかに「死の欲動」を認める考えと同じ立場だろう。
だが大事なのは、自己の存在への固執であるともいえる享受が、このようにみずからの存在の保持や執着ということとは相反する内容をも享受しうるということ、このことのなかに、レヴィナスは『動物的なものと人間的なものとを分かつ断層』(p301)を見ようとしている、ということである。
それはここに、自分の存在を犠牲にしても他者のために何事かをなしうることを「幸福」と感じる(価値を見い出す)、人間の(人間的・倫理的な)存在のあり方が仄見えていると、考えられるからだ。
いわば人間が「存在」の呪縛を越えうる唯一の契機、可能性が、ここに示されていると、レヴィナスは捉える。
ここで、レヴィナスは「自殺と犠牲」について語る。

あらかじめじぶんを犠牲にする可能性をもった存在だけが、自殺することができる。自殺することのできる動物として人間を定義するまえに、人間は、他者のために生き、他者から出発して、自己の外部で存在することができるものとして定義されなければならない。(p301〜302)


ここでは、いわば死をも欲望(享受)しうるという「人間」の特異な内部性のあり方が、他者との関わりにおいて倫理的に生きるという要請をかなえる条件として、見い出されていることになる。
われわれは享受のために自己の存在をも否定しうる特異な存在者であるからこそ、倫理的な要請にも応えうる。
人間が倫理的に生きうる可能性は、人間の享受のあり方のなかに、「生への愛」のなかに含みこまれている、とレヴィナスはみるわけである。



最初に書いたことの繰り返しになるが、レヴィナスは、享楽がなぜこのような両義性をもちうるのか、言いかえれば「不確定さ」をなぜはらみうるのかということを、慎重に考えようとしている。
それは多分、先に述べたような理由から、この「不確定さ」の起源を他者にもっていくわけにはいかないからだ。
『それは、なんらかのしかたで、無から享受の内部性に到来する』(p302)と、語られるだけなのである。
だがこの「無」には、「死の欲動」や「エス」と呼ばれるものの影が見えているのではないか。そして、彼はこうした力の存在を認めつつ、それを「生への愛」という肯定的な力に属するものと捉えようとしているように思える。



自由と反省・『パコと魔法の絵本

ところで、第一部のある箇所では、次のように書かれていた。

道徳的な意識が他者を迎えいれる。私の権能に対する抵抗が啓示されるとき、それは、より大きな力として私の権能を敗北させるのではなく、私の権能の素朴な権利を問いただし、生けるものとして私が有する輝かしい自発性を問いただす。道徳が開始されるのは、自由がそれ自身によって正当化されるかわりに、みずからを恣意的なもの、暴力的なものと感じるときである。道徳とともに開始されるのは了解可能なものの探求であるけれども、同時に知の批判的な本質もまた現象しはじめる。それは、ひとつの存在がみずからの条件のてまえにさかのぼることなのである。(p157 太字強調は引用者)


道徳の開始が、このような「自由」の自己反省、というより他者を通じての(自己の暴力性への)恥の意識によってもたらされるのは確かだとしても、そしてそれゆえにレヴィナスが言うようにエゴイズムによる自己の内部への下降(分離)こそが逆説的にも「私」が他者に直面するための条件だということを認めるとしても、そもそも「享受」のうちにあって閉じこもっているはずの私(自由)には、なぜこのような「反省」が可能なのだろう?
ぼくには、この点がとても気になる。


このことについては、第二部Dで詳しく論じられているのだが、少し別の方向から考えてみたい。
上に書いたことから考えるなら、人間の自由のうちに、すでに「他者のために」へと転回しうる契機(可能性)がはらまれていた、ということになるだろう。自由は、その最大の真摯さにおいては、「他者のために」の受容にもっとも接近する。
だが、この「他者のために」には、「欲動」としての性格、自らを犠牲に供したいという願望が加わっているのではないか?
しかしまた、それこそが、私の暴力性と道徳性とをつなぐ橋ではないのか?


たとえば、先日見た映画『パコと魔法の絵本』では、役所広司演じる「強欲・ネオリベ・暴力」的な老人オオヌキは、記憶が一日しかもたない少女パコの頬を拳で殴って怪我をさせたことがきっかけで、自分の暴力性を恥じて反省すると共に、「彼女のために何かをしたい」という強い願望に衝き動かされる。そのために、本当に自分の命を犠牲にしようとするのだ。
このエピソードで、オオヌキの暴力によってパコの頬に刻まれた傷、その拳の感触が、記憶の能力を欠損している少女に記憶の兆しをもたらす、唯一のきっかけとなっていることも興味深い。
それは、この少女を「記憶からの解放」という享受の無時間的な楽園から、記憶による「時間」の領域、つまり「こちら側」に(文字通り暴力的に)連れ戻すことだと考えれば、二重の暴力である。
しかもこの献身の行為は、自分の記憶を彼女の心に刻み付けたい(傷と同様に)というオオヌキのエゴイズムに根ざしているにも関わらず、「彼女のために」という名分によってその欺瞞性が隠されているとも言える。


だが、この物語の醜悪さは、最終的に自分の命を犠牲にして「救済」を完結させるのが、オオヌキではなくパコである、という結末によって、欲望の自己批判(反省)的な段階に達するのである。
そこで、たしかに何かが救済されたという感じを、見る者はもつ。
オオヌキの「献身」はエゴイズムに支配された暴力的な行動だったかもしれないが、その貫徹の果てに、「オオヌキによって」とは言えないかも知れぬ(この点が重要だろう)とはいえ、たしかにある救済がもたらされる。そこで、エゴイズム(自由)そのものが、ある変容を生じているように思えるのである。
つまり、「自由」の暴力性と(正真正銘の)道徳性は、この映画では、グロテスクではあるが、ある仕方でたしかにつながっているのだ。


レヴィナスが語っている他者とは、オオヌキにとってのパコのような存在なのかどうか、ぼくには分からない。
ぼくに出来るのは、オオヌキのような人について、もちろん自分の問題でもあることとして、だがそこに留まるのでもなく、考えつづけることだけである。
私たちの暴力性と道徳性とは、きっとある仕方で、つながっているはずなのだ。