きのう書いた記事に付け足し。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100902/p1
著者の和辻の思想に対する肯定的な評価の中心が、
とはいえ、感覚の次元に降りたって経験の襞に内在するところから、経験そのものの常識的解釈を解体して、経験自体のひろがりとその彩りとを回復しようとする手つづきは、『倫理学』へと流れこむ、和辻の基本的な哲学的方法ともなることだろう。(p94)
と書かれていたような『経験の水準への投錨』(p96)ということ、また『経験そのものの常識的解釈』を突き破るようなその豊かさの回復の試みに関するものであることは、間違いないだろう。
ところで、日常的な経験の場というのは、私たちが他者と出会う唯一の場と言えるのではないだろうか。「唯一」だというのは、人間が生きている中で、日常的であるといえない空間は、抽象的であるか、少なくとも具体性を欠いていると思うからだ。
だから、もし和辻の倫理学が、ここで言われているように「経験そのもの」の回復を目指したのだとすると、それは他者との出会いの場の回復ということに関わっている筈だと思う。
だが、本書によれば、和辻の倫理学においては、次第に「他性の抹消」ということが明らかになっていく。
著者は、同様に人間(人生)的な生の「経験」の豊かさに深く根ざしながら、「他性」の重要さを語る立場(「国家=全体性」への批判)を手放さなかったレヴィナスをも参照しながら*1、和辻におけるこの「他性の抹消」の原因を、「間柄」が「全体性」へと転換されてしまう点に求めている(p126以降)。
ここで、和辻における国家の問題が出てくるのである。
つまりは、日常的な経験の場を、人間同士の「間柄」(関係)として動的に捉えながら、結局は国家という全体性に回収され、その枠のなかでしか「関係」や「倫理」を考えられなかった、ということだ。
このことは、私たち自身の問題として受け取れる。
つまり、日常的な経験の場を、われわれは本来の動的な(生成の)場としてではなく、どこまでも国家によって設えられた場として捉えてしまっている、ということである。
「日常」という場合に、国家の論理と力によって保証されたものとして、どうしてもそれを捉えてしまっている。その保証が失われたと(半ば無意識にも)感じれば、そのとき経験や関係の場は、もはや「日常」と呼べる安定感、安心感を失ってしまうのだ。
つまり言い換えれば、こうした虚構の安定や安心を作り上げ、それと同時に(裏腹に)「他者」を排除・抹消している国家の暴力性を、我が事として自覚できずにいる、私たちの意識のあり方が、ここに明かされていると思える。
和辻をめぐる問題が、私には自分の課題だと思えるのは、こうした理由による。
国家は、可能性において最大の暴力である。だからこそ国家の廃絶が、醒めてみられた夢であり続ける。(p185)
和辻が『風土』において直観的に、また詩的に記述した風土のさまざまは、その倫理学体系にあっては、「国土あるいは領土の概念」(二五五頁)とのむすびあいを強めてゆく。それとともに、風景のなかに微細な差異を読み、ささやかなものへの視線をうちにふくんでいた風土論は、その性格を変更することになったように思われる。国境が細部への視線を阻むのである。(p197)